中国

2007年6月23日 (土)

52年ぶりの吾が娘に・・(8)

「長期滞在」

長姉の中国滞在は長期の予定である。 本人も周りも、それが 「死ぬまで」 だということを承知している。 ただ社会生活上はあくまで 「長期滞在」 なのであって、そのために渡航前から必要な手続きを勉強した。 滞在中に切れる日本国旅券の更新についてとか、中国での長期滞在ビザについてである。 現在中国は、15日以内の観光ならビザ不要なので、同行した私ども夫婦は旅券以外は何も要らなかったが、姉の場合は慎重な配慮をした。

Harumivisa_1 実は出発前に、中国の長期滞在ビザを(個人で)取得することは難しいことが判明していた。 姉は、中国人と婚姻関係にあったことを証明する文書を何も持ち帰っていなかったからだ。 そこで旅行社に頼んで(観光用の)30日ビザを取ってもらった。 30日あれば、現地での延長手続きをやることが出来ると思われたからである。 実際には入国後13日目に三年間の長期滞在が認められたようで、送られてきた姉の日記にはその喜びが溢れていた。

この姉の場合はやや特殊だが、最近は留学やビジネス以外でも海外に長期滞在する人々が多いようだ。 いわゆる 年金生活者ロングステイ である。 今までの苦労のご褒美にだとか、現状否定の気分が旺盛な方ならば多くが考え付く老後の生活スタイルだ。 そして案の定、これを取り巻く グレーなビジネス が増えていることも報じられている。

今回の渡航はそういう怪しいサービスなど利用しないで、中国帰国者支援・交流センター で色々教えてもらって後は自分でやった。 年金も郵便局から ある 外資系の銀行 に振り込んでやると、瀋陽の街中の ATMで現地通貨を 出すことが出来る。 姉は、頼もしそうな娘や孫たちにぐるりとガードされてそこに立つのだそうだ。 でも、あちらの家族たちはそのお金に一切期待をしてはいないのだと言う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月15日 (金)

52年ぶりの吾が娘に・・(7)

「ウェブインタープリター Web Interpreter (翻訳サイト)」

Shenyang076n 長姉の中国行きの企ては急に思い立ったことで、行く方も迎える方も、双方お互いの言葉が全く分からない状態から始まったのである。 この春に、長年にわたりこの話を推して下さった先輩帰国者たちの努力のお陰で、先方への連絡方法が判明したのだが、そこへ電話を入れて途方に暮れたものだ。 全く会話にならなかったからだ。 多分、姉の長女が出たのであろう、先方は中国語で懸命に訴える風であったが、こちらは始めは日本語で、途中から片言の英語で喋ったのだが通じた風は無い。 この状態をどう締めくくるべきか困ってしまった私を見て、妻がとっさに 「シェーシェー(謝々=有難う)」 と耳元で囁いた。 それを言うと、あちらからも同じ言葉が何度も何度も返ってきて、それはこちらが受話器を置くまで続いていた。

次は、姉を我が家に呼んでおいて再び電話を入れた。 姉は 「大丈夫、話せる!」 と言ったのだが、繋いでみると双方が泣くばかりで、具体的には何も通じた様子は無かった。 でも、それよりはるかに大きな何かが通じた風であったから、それはそれで大きな進展であった。 以後、(先方の通訳が介在しての)日本語による手紙のやり取りが始まり、次いで、長女の息子との英語のメールのやり取りになって、今回の渡航の準備が急速に進むことになった訳である。 そして遂に、かの 「モバイルインタープリター」 のお陰もあって、52年ぶりの涙の再開が成功裏に終わったのである。

姉からの便りによると、その後彼女は中国語を急速に思い出しているようだ。 が、愛すべき 「二度童(にどわらし)」 を はるかに遠い 「楢山」 に放置したままにする訳には行かず、それにはメールがとても良く機能してくれている。 それも今は、向こうからは勿論こちらからも 「中国語」 で発信しているのだ。 ネット上の翻訳サービスのお陰である。 最近はその種のサービスも、主要なポータルサイトはもちろんのこと、他にも非常に多くの翻訳サイトがあって、そのほとんどが無料なのだから有難い(例1例2例3例4)。

インターネット上の 翻訳サービスの進展 とはすなわち 機械翻訳の進化 のことでもあるが、そこには中々の歴史があるようだ。 例えば、吾が現役の頃は技術協力の文書を英語に直すのに汗したものだ。 丁度、私が加入していたパソコン通信で日本初の 「機械翻訳サービス」 が始まった(ニフティーサーブ、1990)のだが、社内の翻訳担当君が 「使い物にならん!」 とプライド高く言っていたものだ。 現在はどうであろうか?。 現今の無料のサービスに文句は言えないが、使って見ると、その出来はサイトによってかなり違う。 がそれも、こちらが入力する日本語の出来次第なのだと分かってきた。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年6月 5日 (火)

52年ぶりの吾が娘に・・(6)

「干支のお守り」

Etopendant01 中国にある世界遺産は現在 33群 あるのだが、その内 瀋陽市には 2群 がある。 ここで 「群」 と言うのは、異なる場所の複数の遺産が一つの世界遺産として認定・登録されているからである。 例えば 「故宮」 は北京のと瀋陽のとが合わせて1群、また、中国の古代王朝である明と清ならびに清の前身後金の25人の皇帝の陵墓群 (うち瀋陽には 東陵=福陵 北陵=昭陵 の二つ) が全部合わせて 1群 として登録されているからである。

慌しい瀋陽滞在中なのに、姉の家族たちは時間を工面しては、結局これら 「一宮二陵」 の全てに連れて行ってくれた。 お終いに訪れた北陵 (清朝初代皇帝ホンタイジの陵墓=昭陵) では、姉の長女の長男が案内をしてくれていたのだが、彼の配慮にとても感動したことがあった。 境内のお守り売り場で、私共に瓢箪形のガラスのペンダントを買ってくれたのである。 その内側には細密な絵と文字が描かれていて、その場で客の氏名も書き込んでくれるのだが、なんとあの小さな瓢箪の口から筆を差し込んで書くという妙技なのだ。

Etopendant00 私と妻はそれぞれ、見事に書かれた自分の名前を確認してから、その裏側を見て更に驚いた。 そこにはそれぞれの干支の絵が描かれているではないか。 妻は、どうしてそれが分かっていたのかととても不思議がっていたのだが、私には一つ思い当たることがあった。 渡航前に 3人 のパスポートの写しを送っておいたからで、それは姉の長期滞在の手続きのために、いつかどこかで必要になるであろうと思ってメールに画像を添付しておいたものだ。 それからちゃんと干支まで把握しておいてくれた訳だ。

さて、今年の干支は 丁亥(ひのとい) だが、「亥」 とは 「猪」 のことだと言うのは日本だけのようで、中国や韓国では 「豚」 のことらしい。 今回も瀋陽市内でとても大きな金色の豚を見た。 ギネス認定の 世界一の豚の貯金箱 だという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月30日 (水)

52年ぶりの吾が娘に・・(5)

「写経」

Shakyou 私の長姉は81歳にして写経を始めた。 彼女の念願であった瀋陽滞在を成功させ、そこでの日々を平穏に過ごせるようにと、私の妻が提案したことである。 今、姉は長女の家の一室で毎朝一巻を書写して、それを一週間分まとめて日本へ送って来る。 それぞれの末尾には、姉の(即ち私の)故両親と、中国での亡夫と、そして日本での亡夫の冥福を祈る願文が日毎に変えて記されている。 当初は誤字が多かったのだが、妻の添削が効いたのか、今はきれいに揃った文字になって、それは現在の姉の心の平安を写しているように思えて嬉しい。

あちらの国では写経は一般的ではないのか、瀋陽での最初の朝に書かれたものをその夜の歓迎会の席で長女がうやうやしく広げたのを、みな珍しそうに見ながら、自分たちのお婆ちゃんがこのようなことが出来ることに感動しているようであった。 それは 「般若心経」 の書写だから、その漢字は謂わば 「繁体字」 であって現在の中国では(香港や台湾以外では)使われていない。 新中国成立後に文字改革が行われて 「簡体字」(1964~) が定められてからもう40年以上経っているのだから、皆は、その古めかしい文字群を見て感じ入ったのであろう。

写経をすること の意義は何であろう。 昔は、仏の教えを伝えるという 僧たちの崇高で真剣な目的 のみがそこにあったのであろう。 それが国策の下での専門集団の生業になったり、一般僧の修行の手段にもなったり、更には貧富それぞれの信者たちの個人的な祈りの手段になってきたのだという。 加えてそこに、薬師寺の故 高田好胤 師の発想の大転換により、仏堂伽藍の建設資金のための 「勧進写経」 という、言わば近代宗教界の大発明とも言うべき発願(1967)がなされて、今やあちこちの寺々でそれが流行している。 さらに今回、とても変わった 「写経の勧め」 も見つけたのだが、なるほどここにも IT の時代を実感させられて、そして、日本はやはり平和なのだなとしみじみ思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月20日 (日)

52年ぶりの吾が娘に・・(4)

「楢山節考」

Narayama これは第1回中央公論新人賞(1956年)を受賞した深沢一郎の小説の題名であり、その後二度も映画化されたものの題名でもある。 それらの内私は、木下恵介監督の作品(1958年)を観ている。 それはもう半世紀も前の私の学生時代のことで、内容に関連は無いが、ちょうど姉が娘二人を瀋陽に置いて一人で帰国した頃の、日本での話題作である。 一般には「姥捨て」の話とされているが、そんなに単純な悲劇ものではなく、もっと深く、日本古来の宗教性を感じさせられる印象であったと記憶している。

今、これを思い出したのは、今回私が姉を中国に連れて行ったことは、ある面から言えば、それはまさしく 「姥捨て」 ではないのかという自問が続いているからである。 あの映画の老婆は、今迄の住家を離れて、行けば確実に死ぬであろう山奥に向かうことを積極的に望み、喜々として息子の背におぶさる。 その山奥で待っていたのはカラスの群れだったのだ。 が、一方先日の瀋陽空港で、涙と抱擁で迎えてくれた娘たちの家族群の心はそれとは全く違う。 比較することさえ申し訳無いほどの世界へ私共は着いたのだった。 昨日の姉からの手紙によれば、夜明け近くになると、娘がきまって 「母」 のベッドに入って来て、手を握ってくれるのだという。 「もう離さないよ」 と言いいたいのであろう。

Narayamab でも、こちら側はどうなのであろうか?。 もしそこに、「厄介払い」 の気持ちが少しでもあったのなら、それはなんとも恥ずかしいことだ。 ・・そんなことにとらわれていることさえ恥ずかしい。    実は、姉はこれから毎日、日記を書くことと 「写経」 をすることを約束してくれている。 共に彼女には始めてのことだと思う。 その第1週分がこちらに着いたので、折角のことだからとて妻に添削してもらったら、たちまち朱い文字でいっぱいになってしまった。 早くこれを送ってやろう。 いま改めて 「般若心経」 を読みながら、自分にも 「とらわれない」 心がほしいよと、切に思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年5月16日 (水)

52年ぶりの吾が娘に・・(3)

「二度童(にどわらし)」

Shenyang0752_1 瀋陽での夕べ、老婆を歓迎してもらった宴席での答礼の挨拶で、私は 「姉はもう、日本で言うところの "にどわらし" なのです。 だから、これから皆さんに色々と迷惑を掛けていくと思います。 なのに、連日このような席を設けて頂いて御礼の言葉もありません・・・。」 と、これだけ言ってもう胸がいっぱいになってしまった。 それに対して、「グランマのことは心配しないで下さい。 それより私たちは、今回、彼女を瀋陽まで連れて来て下さった叔祖父さまご夫婦のご苦労こそを感謝したいのです。」 と、通訳女史を経ての優しい言葉が返ってきて、もう堪えることが出来ず、今までの我が胃の痛みとともに、熱いものが流れ落ちたのであった。

人は加齢に従って 「もの忘れ」 がひどくなり、更に進んで病的になれば、いわゆる 「認知症」 になる。 でも姉は、そのどちらでもない。 いたって元気なのだ。 しかし今迄は、周りの方々がはらはらするような勝手気儘な振る舞いをしてきたようである。 遠く離れて暮らしてきた私自身は、その被害を被った経験が無いので詳しいことは知らないが、今回の瀋陽訪問に当り、それに素直に賛成出来ない弟妹やお家族の説明から想像すれば、私にはそれが 「にどわらし」 の行いそのもののように思えたのだ。

言い換えれば 「天真爛漫」 ・・・、 敢えて、そう思ってやりたい気持ちであった。 それが、老いて行き着く幸せの形なのだと。 今回の中国渡航は、ひどい書痙で字が書けない私を補佐してくれる妻と、二人だけで実現させたのだが、それが出来たのも、このような思いが支えになったからである。

この姉のみならず、私の周囲にも 「わらし」 や 「認知症」 らしき人はあちこちに居る。 これらの人々に、大きく優しく接することは、確かに、言うに易しいが励行は難しい。 逆に狭い社会では、そこに 「排除の論理」 が働いてしまう。 もともと 「隣は他人」 という都会ならそれが普通なのだろうが、旧い田舎ではそれがきつく働く。 悲しいことに今度のことで、我が故郷の地にもそれを私は感じてしまったのである。 ・・・ 問題な人をこそ慈しめよかし ・・・、「赤子叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」 ・・・、この言葉を、私は今日もかみしめている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 9日 (水)

52年ぶりの吾が娘に・・(2)

「モバイルインタープリター Mobile Interpreter (携帯通訳)」

Shenyangap0752 5月初めは中国でも連休 (5/1~5/7 = 国際労働節) である。 その二日目の午後、瀋陽桃仙国際空港の入国通路のコーナーから、81歳の老婆とその弟夫婦が、カートに荷物を満載してゆっくりとした歩みで現れた。 若ければきっと、そちらで花束を持って待っていた二人の娘に向かってダッシュしたことであろうに、ただ片手を挙げてそれをゆっくりと揺らしながらの老婆の歩みを、付き添う私達も、迎える人々も、誰も急かすことは出来なかった。 52年間の別離から見れば、それはほんの一瞬の、贅沢な甘酸っぱい焦燥に過ぎなかったのだ。

老婆が29歳の時、満蒙開拓団の残留婦女引上げの誘いに抗し切れず、止む無く現地に残してきてしまった二人の娘は、当時 5歳 と 2歳、それが今、総計 15人 もの家族群になって、「グランマ!・・(お婆ちゃん!・・)」 と呼びながら感涙の抱擁を繰り返す。 送って行った私どもは 4日半 の滞在だけで帰国したのだが、その間も母娘3人の抱擁は何度も繰り返された。 それはまるで、双方の言葉がちゃんと通じているような情景であった。 そんな筈は無い。 何故なら、娘たちの語りかけは中国語であり、老婆の返事はほとんど日本語だったのだから。 でも、全て分かり合えている風であった。

実は、先方はちゃんと 通訳 を準備して待っていてくれたのだ。 が、その人は当の女性達の中に入る余地など無く、頼りにしたのは私である。 これから姉が瀋陽に長期に滞在するために、それに必要な手続きや打ち合わせがあったからである。 通訳をしてくれたのは、姉の長女の息子の友人の奥さんで、日本留学の経験があり、現在は日本企業の瀋陽支店に勤める美しい女性で、しかし妊娠3ヶ月とのことであった。 だから、こちらの慌しい日程に付き合わせることは危険であった。 実は私の妻は妊娠初期に2度も失敗していてその事は良く分かっていた。 ところが、今回の通訳の手法はまったく素晴らしいもので、それは言わば 「モバイルインタープリター」 とでも名付けたいような方法だった。

先ずは(通訳無しで)、中英辞書をめくりながら打ち合わせを進めるのだが、行き詰ると先方はやおら携帯で、自宅で休養中の彼女に助けを乞うのである。 日本人の精神構造を十分に理解しているらしい彼女の interpreter機能 はそれで見事に働き、私どもは1台の携帯をやり取りしながら十分に意思を疎通出来たのである。 日ごろ、携帯に 「使われているような」 人々を軽蔑の眼で見ていたのだが、これには心底から脱帽した私であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月27日 (金)

52年ぶりの吾が娘に・・

私の長姉は今度、半世紀以上も前に分かれたままになっていた二人の娘に会えることになった。 その謂れは、姉が満蒙開拓団員の花嫁であったからだ。 昭和19(1944)年に渡満し、昭和30(1955)年に日本へ引き上げて、以来半世紀余り、現在81歳の彼女の人生も、30万人とも言われる他の団員の皆さんと同様にとても苦難に満ちたものであったようだ。 「ようだ」と言うのは、姉はそれをあまり語らなかったからである。 そして私たち弟妹も、(自分たちの都合ばかりが優先してしまって)そのことには触れないようにして来たからだ。

長姉は、私どもの親の没年齢 (母は60歳、父は82歳) を間もなく超える。 波乱に生きて来た彼女は、さすがに元気で、最近になってようよう その姿が亡き母の面影と重なるように見えてきた。 そこで昨年暮れに、私から乞うて、その波乱の思い出を初めて話してもらったのである。 あの大戦の末期、祖国の行く末もつゆ知らず、幾組かの若い夫婦達が希望に燃えて、新天地に向けて出発して行ったのであろう、あの田舎の駅頭にいっぱい振られていた日の丸の旗の波々、その波だけが、当時5歳であった私の記憶に残っている。

Manmounote 希望に満ちた出発であったのに、あちらで待っていたのは厳しい開拓生活、そして夫の現地召集、続く敗戦と ロシア兵からの逃避行、背中に負ぶっていたままの長女の死、・・その内容は、平和ボケの私には想像さえ出来ないとても悲惨なものであった。 話してくれて以来、姉の胸の中に熱いものが燃え始めたのであろう。 たったひと目でもいいから、52年も前に分かれたままの二人の娘に会ってから・・と・・。 その子らは、姉の逃避行の終端でその命を救ってくれた中国人との間に生まれた子達である。でも、その恩人はもう故人とのことだ。

帰国して再々婚した姉は、その夫とも死別し、その家で安らかに過ごさせてもらっている。 だから今迄、あちらの子らに会いたいという気持ちを必死に堪えて来たのであろう。 しかし、もういいのではないか。・・ と、私は姉の願いを叶えてやるべく、色々と複雑な調整や手続きに走り回った。 そして間もなく、姉を連れて行く。 そうだ、あちらで待っているのは、私の姪たちなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月11日 (日)

私論茶経(8)= さんぴん茶

Sanpincha 久しぶりに沖縄を訪ねた。 現役時代は仕事で何度も行っていたのだが、その時はあの沖縄そば (特にソーキそば) の美味しさばかりに気を取られていて、気付かなかったもう一つの沖縄の香味を、今回知った。 さんぴん茶 (ジャスミン茶) のことである。 他の ハーブティー に有り勝ちなきつい自己主張も無く、沖縄の料理や風土に良く合った、口当たりさっぱりで、同じお土産の 「黒糖」 とも良く合うし 「泡盛」 を割るのにもいいと言う。 これが地域の皆さんの常用茶であることを納得した。

でも サンピン なんて、どこか貧相な音感がしてしまう。 が、今ネットで調べると、ちゃんと立派な語源があることが分かる。 あの香りの良い ジャスミン は元は ペルシャ語 で、これを中国では 茉莉 と言い、その香りを付けた茶を 「茉莉花茶(モーリーホワチャー)」 とか、とくに中国北部や台湾方面では 「香片茶(シャンピイエンチャー)」 と呼んで、多くの人が愛飲している。 後者が即ち さんぴん茶 の語源である。

そして、ジャスミン茶 にも色々あって、中国緑茶 に ジャスミン の花の香りを付けてから花だけ取り去る (以上の工程を 「イン」 とか 「薫(シュン)」 と言いこれを繰り返して高級品にする) もの、花片を取り去らないもの、変色した着香用花片は取り去るが最後に上等な花片を加える (提花) もの、緑茶 のような 不発酵茶 ではなく 弱発酵茶(白茶) や 半発酵茶(青茶即ち烏龍茶。台湾では包種茶) や 全発酵茶(紅茶) などを基材とするもの、等々実に様々だ。

今、お土産に買ってきたものをよく見ると、この さんぴん茶 は花片を残した 釜炒り緑茶(=炒青緑茶/対して日本の緑茶は概ね蒸して作る=蒸青緑茶) のようで、その素材はほとんどが中国大陸や台湾などからの輸入品であると思われる(脚注)。

今回の沖縄行きは、結婚44年目を記念した観光旅行の意味合いでツアーに参加したものだが、実は別の目的があった。 途中、オプションの行程から離れて、3年前に亡くなった大学級友の留守宅を訪ねたのである。 永年沖縄県下の農業用ダム事業の学術・技術面の指導をしてきた故人は、琉球大学を退官して間もなく急逝してしまった。 仏前で奥様のお話を伺いながら頂いたジャスミンの香るお茶の味・・・、数々の顕賞額に囲まれた彼の顔がとても優しく見えた。

注) ; 台湾が中国茶の産地であるように、南国沖縄の立地もそれに好適のように思われるのだが、地味が適さないのか府県別の茶の生産量では 27位(農林統計H17.2月) であって、所謂茶の主産県ではない。 当地では、琉球王朝時代から明からの交易品として香片茶が 「さんぴん茶 ・ 清明(シーミー)茶」 の名で入ってきていて、当時の大陸には沖縄茶商による現地工場(福建省)もあったという。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年6月15日 (木)

飲茶はワゴンで・・

Yamcha02 親娘4人のケアンズ滞在3日目のお昼は市内で本格的な飲茶を楽しんだ。 「本格的な」と言うのは、そこがワゴン式飲茶を供していたからである。 私が初めてこの形式を体験したのは1985年、開発援助の仕事で比国ボホール島からマニラに帰る中継点のセブ島にてであった。 飲茶そのものが初めてであったから、以来、あのスタイルが正式で本物なのだと思っていた。 セイロの中で湯気の上がっている品物を、自分で見ながら嗅ぎながら、思うままにチョイス出来ることは実に楽しかったのだ。 そして再びあの自由で自在な雰囲気を味わいたいものだと願っていたのだ。

しかし今、我が名古屋の周辺の中華料理店(飲茶の元は広東料理らしいが)で、この方式の飲茶をやっている所を知らない。 東京・大阪近辺ならあるのかも知れないが、ネットで調べると本場の香港でも減っているのだという。 代わりにオーダー式 (メニュー兼用の伝票にチェックを入れて頼む) になっていると言うが、その理由は経営上の事情なのか、衛生上の問題なのか詳しくは知らない。 何だか残念な気持ちがするのは、どうやら私だけではないらしい。

Yamcha01 いずれにせよ、飲茶の良さは他にもまだある。 大人数で行って、皆でつつけば、それだけ多くの品物を味わえるからである。 中には、鶏の足首の旨煮のような見た目も凄いのがあって、女性軍は顔をゆがめていたが、その分私だけが喜べるのだから止められない。 添付の写真は、妻に見えないようにして私が賞味していたものを、次男の嫁が撮ってくれたものである。

ところで、飲茶での本来の主役は、席に座って先ず出される中国茶だった筈なのだが・・?。 でも、最初のワゴンがやって来た瞬間にそれは脇役になってしまう。 今、あの時どんな茶を飲んだのかも思い出せないほどだ。 でも、あんなに沢山食べたのに、帰りの散歩が気分爽快だったのはきっとあの中国茶のお陰だったのだ・・。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年5月27日 (土)

土ボタル

Glowworm 旅から帰ったら、日本では蛍のたよりが行き交いはじめていた。 ケアンズでは近くの熱帯雨林の中の土ボタル見物を体験してきたのだが、そのツアーは年中やっているのだという?。 初夏の風物詩として「ほたる」を愛でている日本国民としてはちょっと変な感じがした。 ネットで調べてみると、それは Arachnocampa (直訳すれば 「蜘蛛の天幕」 で、多数の粘った糸が垂れ下がって光る様子そのものだ) という名前の、蝿や蚊のような昆虫の仲間の幼虫が光っているのだという。 日本の蛍 firefies は幼虫も成虫も光るが、分類上はこれも土ボタルも一括して glowworm と呼ばれ世界で約2000種類、その内、日本のように飛ぶ蛍は実は大変珍しく約40種類だという。

なるほど、蝿や蚊なら暑ければ年中涌いている筈だ。 これでは、人の心に響くような季節の移ろいとは関係が無く、逆にだから、季節が豊かに流れている日本(や中国)に 「ほたる文化」 と言われるほどの行事や文芸が続いて来たことが納得出来る。

今回の土ボタルの場所は、前に書いた 「Tボーン」 のレストランの経営者が所有する牧場の中の渓流の崖で、昔彼のお父さんが見つけたのだと言う。 言っては悪いが、あのあやしい光を愛でる気持ちよりは、「こいつはビジネスになる!」 という気持ちが勝ったのかも知れない。 調べると、彼の国では人工の土ボタル洞を経営している人も居るようだ。

ところで、わが山小屋のある岐阜の山奥の渓流にも大きなゲンジボタルが乱舞していた。 それが数年前の大雨による出水できれいに消えてしまった。 それを復活させようという話がオーナー達の組織で出ているが、素人には難しいようだ。 でもあちこちで、ほたる復活の話は盛んだ。 平和はいいと、しみじみ思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年4月20日 (木)

ミリタリーマップ

今から206年前の昨日、当時 55才の伊能忠敬 (1745-1818) が蝦夷地の測量に出発した。 50歳の時に醸造や水運それに下総国佐原の役職等々から隠居し、江戸に出て測量と天文観測を学んだ後にである。 その意思たるや、そしてその成果(#1)たるや、測量士の端くれである私には尚のこと、彼がとてつもなく偉大なお方に思えるのだ。

それは11代将軍家斉の時代で、黒船の浦賀来航は未だ後 (1853) のことだが、既に 1792年には帝政ロシアのラクスマンが根室に入港し通商を求めていたから、幕府にとって蝦夷地の把握は緊要なことだったに違いない。 のみならず、伊能図の有用性は彼の死後も益々高くなり、幕末には英国艦隊がその小図を持ち帰り、日本陸軍は長くこれを基本の図としたという。 これらは関東大震災で全て焼失したと思われていた。

が、近年になって米国議会図書館や海上保安庁海洋情報部から 写本が発見された という。 そもそも地図とは国土を把握した図のこと。 だから今でも多くの国でこれの通称を 「ミリタリーマップ」 と言うのだ。 農業開発や水資源開発のための技術援助の仕事で海外に行くと、私達が先ずやったのは当該地域の地形図 (殆どの国で5万分の1の国土図のこと) を入手することであった。 行き先は決まって国防関係の役所だった。

しかし現在は、例えば日本では、国土の地図を司るのは軍人ではなく文人 (国土地理院) である。  更に今や地形の情報は、国毎の体制や都合を超えて、地球規模で、しかも無料で提供されている。 思うに、ITの時代とは物凄い時代なのだと思う。

Japan 注; (#1) をクリックすると現れるのは実際の日本の地形と伊能図のそれとを対比したもの。 その範囲を現在の GoogleEarth で見たものが右の写真である。(クリック→)

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年4月13日 (木)

私の心経

心経とは般若心経のことである。 あと8年で、その教えを説かれた釈迦如来が入滅してから2,500年になる。 そして、大乗仏教の祖と言われる龍樹菩薩が、釈迦の教えの真髄を「空」として纏めたのはそれより6,7百年後、更にあの三蔵法師が、その纏めのエッセンスをサンスクリット語から現在のような276文字の「心経」に漢訳してから1,350年余も経っている。 そして現在、この心経は最も多くの人に最も多くの回数で読まれているお経だと言う。

例えば、この季節の四国のあちこちでは、一日に延べ数万人・回の心経が詠まれている筈で、日本全国の寺院や仏前でも同様であろう。 私も四国遍路を既に二周り半したので、心経は諳んじて読める。 ただ、私が育った村ではみな浄土真宗だったので、このお経を知ったのは故郷を離れて以降のことだ。 なぜ浄土真宗では(日蓮宗も)心経を詠まないのか詳しくは知らない。 その根本を纏めた龍樹菩薩をとても大事に(正信偈)する宗派なのに・・?

さて、私が心経をどのように理解しているかを書くのは恐れ多いことだが、この歳になれば、ふと思い当たる「こと」は少なからずある。 でも、「こと」では、それだけで教えの真髄から外れるのかも知れない・・。 そしてなるほど、結論は「無」とか「空」なのだから、賢いお方にとっては書くのは簡単だとみえて、今でも哲学者生命科学者などが本にしては稼いでおられるようだ。 実に偉大なお経である。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2006年4月 5日 (水)

私論茶経(5)= 明前茶

中国大陸に花咲き芽吹く時が来た事を祝うのが清明節(今年は4月5日)だ。 これは「二十四節気」の中で唯一の公休日であり、人々は一家で墓参りに行くと言う。 日本で言えばお彼岸(3月21日)的だが、気候で言えば初春と言うよりも初夏的な風景だ。 そしてこれは、中国緑茶の走りがとても丁寧に作られ超高値で売り出される時期でもある。 言わば日本の八十八夜(5月2日)に相当するのだが、彼我のこうしたズレは、例えば日本の代表的茶所である静岡県の緯度が35度であるのに対して、あちらの産地は(台湾を含めて)それよりかなり南の25度前後に多いことからも頷かれよう。

ただ、「明前茶=中国茶の季節による分類で、清明節以前に作られたもので、貴重である」 とだけ知っていると誤解のもとになる。 この説明に間違いは無いのだが、この場合の中国茶とは緑茶のことであるからだ。 日本では「中国茶=>ウーロン茶=>青茶」という認識があるので、この場合には「明前茶」など無いのだ。 日本での中国茶商さん達が、普段は「青茶」を盛んに宣伝しているのに、この頃だけはみな「緑茶商」になるのはそういう季節の流れが背景にある。 それに実は、中国で産出される茶の3/4は「緑茶」なのである。

ところで、あの茶の聖典「茶経」の著者の陸羽は、当時の茶摘のシーズンについて、「(旧暦の) 2月・3月・4月の間に摘む」 と書いているだけで、緑茶に大事な筈の「旬」については何ら論じていない。 何故なら、当時の製茶法が、まず茶葉を蒸すところは現在の日本の緑茶と同じなのだが、次にこれを杵と臼で搗いて型で成形し、日干しと火焙りとで 「餅茶」と成した のだから、そこには季節感などは入っていなかった訳だ。

Seikolonjin さて、右の写真は中国緑茶の最高峰と言われる龍井茶の産地に臨む杭州市の西湖の衛星写真である。 今はさぞ、「明前龍井」の仕上げに忙しいことだろう。 下方の大河は大逆流で有名な銭塘江で、その時の流れは右上から左下に向かって、普段とは逆になる。(クリックすると拡大する→)

| | コメント (6) | トラックバック (1)