旅情

2008年5月20日 (火)

スマートインターチェンジ

いつもの山小屋へ向けて走る高速道路で、先日、とても便利なルートが出来ているのに気が付いた。 目的地の 東海北陸道・荘川IC の直前に(日本で一番高所の) ひるがの高原サービスエリア があるのだが、昨年末から ETC搭載車 はそこで地方道に出入りが出来るようになっていたのだ。 これは 「スマートインターチェンジ」 と呼ばれるもので、ETC社会実験 の一つになっているようだ。 名古屋から走ると従来よりは 100円 だけ安くなるのだが、それよりも山小屋地点へ ショートカット された感じがとても嬉しい。

調べてみると、「社会実験」 には色々とあるようで、結果が良ければ、その事業が「実験」から「実際」へと移行して行く訳だ。 現在、その方式を盛んに利用しているのが 「ETC普及」 への取り組みであるようで、他にも 駐車場ETC社会実験(終了) ETC料金割引社会実験 などがある。 そもそも ETC を付ければゲートで停車することも無くスイスイと有料道路への出入りが出来る快適さがいいのだが、さらに、「割引」を始めこれら色々な「特典」が付加されると、きっとその普及が加速することであろう (何故か スマートIC では一旦停止しなければならない。 ネーミングだけはミスったようだ)。

ただ、これらの取り組みを実際に担当しているのは、国土交通省の外郭団体が多いようで、中には今色々と悪名を挙げられているのも含まれているかも知れず、これらの割引や特典に素直に喜んでばかりでいいのかと、その奥深い所を知らないおじんは、ちょっと不安になる。

Googlearth ただし、スマートインターチェンジ は、その発意も運営当該地域(市町村) が大きく関わっているようで、その効果が地域に活かされているという感じがする。 従来の IC と今回の IC とがほんの 数Km 離れているだけなのにそれを感じる。 右上の画像をクリックすると今回の IC群 の位置関係が分かる。 だからきっと、全国のサービスエリアで、造って欲しい運動が燃え上がるような気がする。

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2007年8月11日 (土)

還暦の祝い

私の 還暦 はもう一昔も前のことで、当時はさしたるイベントなども無く通過したのだが、これは、今年それを迎えた ある丁亥(ひのとい) の男性のお話である。 誕生日には少し早いが、彼ら夫婦はこの夏、それを祝う温泉一泊旅行に子供らを招いた。 招いたとは、「主賓 が即ち スポンサー」 になったということなのだが、その企画演出の一切は例のごとく二人の娘がやってくれたものだ。 そして娘たちの旦那や親戚は、いつものようにわくわくとした期待を抱いて、喜んで参加させてもらった訳だ。

60thbirthday それほどに、この姉妹の企画・演出のセンスはともに見事なのである。 その夕べの宴席で、色々なプレゼントに加えて、とりわけ「主賓」を喜ばせ感動させたのは、参加者みんなによる寄せ書き (←クリック) であったようだ。 前以て内々に、それぞれが寄せていたのは 「祝詞」 と 「写真」 だけだったのだが、それらが見事にアレンジされて、大きな一つの額にきれいに並んで収められているのを見て、しかもその中に孫娘の懸命な筆跡を見れば、本人ならずとも誰もが、宴席の仲居さん達までもが、感動せざるを得ない贈り物になっていた。

その日の彼は、伊豆の 名湯 に何度も浸り、熱い湯で幾度も顔を拭いながら、来し方のわが労苦の汗を流し去ったことであろう。 そして、「さあ、これからも・・」 と、更に意義ある余生に向けて、その感慨を新たにしたことであろう。  それにしても、「頼もしきは娘・・・」、これは真実である。 あいにく私どもには、その種のセンスに欠けた息子が二人だけなのだが、だから今、それぞれにかわいい 「娘」 が来て居てくれて、とても嬉しい。

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2007年8月 3日 (金)

伊豆の土木遺産

久しぶりに伊豆を訪れた。 前回ははるか36年前で、愛車ファミリアクーペの後部座席を板+マット敷きに加工し、未だ幼児だった二人の息子と義母とが横になれるようにして、開通2年目の東名高速を走ったことになる。 この偉大なインフラストラクチャーを利用するのに、当時は 名古屋IC から 沼津IC まで 1,450円、現在は 5,100円 だが、例の痛快な ETC の告知音に酔わされて値段の方はよく聞こえなかった。

さて、土木屋にとって伊豆は見るべき施設の多いところだ。 今回初めて訪れた 「韮山の反射炉」 をはじめ、どれも偉大である。 現に働いている施設を 「遺産」 と言うのはおかしいかも知れないが、伊豆にはそういうのも多い。 今回は関わらなかったが規模で言えば、ともに並行して伊豆の函南町の下を走る JR東海道線の 丹那トンネル(7,804m) と新幹線の 新丹那トンネル(7,959m) が先ず挙げられよう。 が、なにせ地中の施設であるからか、今 地図を広げても観光向けのポイントは何も見つからない。 「函南町大字上沢字新幹線」 という珍しい地名が目を引くのだが、町の公式サイトにもその案内は無い。 ただ、反対側(東口)にある 丹那神社 のサイトが興味深い。

そして今回は念願の 「天城山隋道」(1904) を訪れた。 これは道路トンネルで、上記よりぐんと小さいのだが、石造りとしては国内で最も長く (445.5m)、道路トンネルとして初めて国の重要文化財に 指定(2001) されている。 暗くひんやりとした中を車でそろりそろりと通過したのだが、開通以来100余年、明治の工人たちによる 「切り石巻き工法」 の 馬蹄形断面の中の、堅固な壁面を見ながら歩いて行き来した、往時の旅人のさまざまを想った。

Kanogawafloodway もう一つ(←クリック)、伊豆には巨大な 「水のトンネル」 がある。 この 「狩野川放水路」 は土地の人々にはもちろん知られている筈だが、観光案内にはあまり登場していなので、道を何度も間違えてしまった。 この 中伊豆地域 を北向きに流れる 狩野川 の下流部分は曲がりくねっていて、洪水が起きやすく、このためにその 17km 分をたった 3km の放水路(トンネル部分もある)で山を抜いて、駿河湾へ向けて ショートカット した(1965)ものだ。 洪水時には最大毎秒 2,000トン の濁流がこの人工水路を走るという。 公式サイトではそのライブ動画を見ることも出来るようだが、幸か不幸か普段は水の流れが無いので当日は見られなかった。

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2007年7月30日 (月)

敬老パス と 循環バス

Keiropass 私ども名古屋市民は 65歳以上 になると市営交通機関などの年間定期乗車券を格安に購入出来る。 その更新は一律に 毎年8月末 と決められているから、先日その案内が送られて来た。 実は私が該当年齢になった時には 無償 で支給されたものだが、現在は 所得 に応じ (介護保険料の段階に応じ) て所定の額を当人が負担することになっている。 ただそれも、年額 1,000~5,000円 程度なのだから普段の利用者からすれば大いに助かるし、しかもそれを最寄の郵便局に納付すればその場で発券してもらえるのでとても便利だ。

この制度は、名古屋市が誇るべき高齢者向け住民サービスだと言えよう。 おかげで外出好きの高齢者が増えたような気がする。 さてこちらは高齢者ではないが、実はわが次男の嫁も、住まいの前から市バスに乗って、市営地下鉄に乗り継いで通勤しているので、早くも 「65歳になるのが楽しみ!!・・」 と言ったものだ。 が、気の毒に、彼らの住まいの前の道路が隣の市との境界であって、自分たちはその隣の市に住んでいるということをつい忘れてしまっていたのだ。 しかし、そちらの市の公共交通でもその地域ならではの住民サービスを見ることが出来る。 その呼称も 「くるりんバス」 と言って、少なくともその音感は住民に優しそうだ。

この春に、萩市 を訪れた際にも実感したことだが、今や全国至るところでこのような コミュニティーバス が走っている。 これらには、当該の行政地域内だけを回る 「循環バス」( → 日本初 1980- の例 ) や、域外の至便地点まで足を伸ばすものや、主として 観光客向け にルートを設定しているものなどがあり、狭い町並みを走る 循環乗り合いタクシー さえもあるという。

いまネットを巡って調べてみると、その背景にはいずこも、従来の地域路線バスの軒並みの 赤字 と 廃止 とが先ずあって、それに対する住民の足のサービス維持への要望と、関係者の知恵が働いた結果のように見える。 どうやらそれは世界中の現象のようで、そう言えば昨年、オーストラリア の ケアンズ で(主として)日本人向けの 循環バス を利用してとても便利だったことを思い出す。

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2007年6月23日 (土)

52年ぶりの吾が娘に・・(8)

「長期滞在」

長姉の中国滞在は長期の予定である。 本人も周りも、それが 「死ぬまで」 だということを承知している。 ただ社会生活上はあくまで 「長期滞在」 なのであって、そのために渡航前から必要な手続きを勉強した。 滞在中に切れる日本国旅券の更新についてとか、中国での長期滞在ビザについてである。 現在中国は、15日以内の観光ならビザ不要なので、同行した私ども夫婦は旅券以外は何も要らなかったが、姉の場合は慎重な配慮をした。

Harumivisa_1 実は出発前に、中国の長期滞在ビザを(個人で)取得することは難しいことが判明していた。 姉は、中国人と婚姻関係にあったことを証明する文書を何も持ち帰っていなかったからだ。 そこで旅行社に頼んで(観光用の)30日ビザを取ってもらった。 30日あれば、現地での延長手続きをやることが出来ると思われたからである。 実際には入国後13日目に三年間の長期滞在が認められたようで、送られてきた姉の日記にはその喜びが溢れていた。

この姉の場合はやや特殊だが、最近は留学やビジネス以外でも海外に長期滞在する人々が多いようだ。 いわゆる 年金生活者ロングステイ である。 今までの苦労のご褒美にだとか、現状否定の気分が旺盛な方ならば多くが考え付く老後の生活スタイルだ。 そして案の定、これを取り巻く グレーなビジネス が増えていることも報じられている。

今回の渡航はそういう怪しいサービスなど利用しないで、中国帰国者支援・交流センター で色々教えてもらって後は自分でやった。 年金も郵便局から ある 外資系の銀行 に振り込んでやると、瀋陽の街中の ATMで現地通貨を 出すことが出来る。 姉は、頼もしそうな娘や孫たちにぐるりとガードされてそこに立つのだそうだ。 でも、あちらの家族たちはそのお金に一切期待をしてはいないのだと言う。

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2007年6月 5日 (火)

52年ぶりの吾が娘に・・(6)

「干支のお守り」

Etopendant01 中国にある世界遺産は現在 33群 あるのだが、その内 瀋陽市には 2群 がある。 ここで 「群」 と言うのは、異なる場所の複数の遺産が一つの世界遺産として認定・登録されているからである。 例えば 「故宮」 は北京のと瀋陽のとが合わせて1群、また、中国の古代王朝である明と清ならびに清の前身後金の25人の皇帝の陵墓群 (うち瀋陽には 東陵=福陵 北陵=昭陵 の二つ) が全部合わせて 1群 として登録されているからである。

慌しい瀋陽滞在中なのに、姉の家族たちは時間を工面しては、結局これら 「一宮二陵」 の全てに連れて行ってくれた。 お終いに訪れた北陵 (清朝初代皇帝ホンタイジの陵墓=昭陵) では、姉の長女の長男が案内をしてくれていたのだが、彼の配慮にとても感動したことがあった。 境内のお守り売り場で、私共に瓢箪形のガラスのペンダントを買ってくれたのである。 その内側には細密な絵と文字が描かれていて、その場で客の氏名も書き込んでくれるのだが、なんとあの小さな瓢箪の口から筆を差し込んで書くという妙技なのだ。

Etopendant00 私と妻はそれぞれ、見事に書かれた自分の名前を確認してから、その裏側を見て更に驚いた。 そこにはそれぞれの干支の絵が描かれているではないか。 妻は、どうしてそれが分かっていたのかととても不思議がっていたのだが、私には一つ思い当たることがあった。 渡航前に 3人 のパスポートの写しを送っておいたからで、それは姉の長期滞在の手続きのために、いつかどこかで必要になるであろうと思ってメールに画像を添付しておいたものだ。 それからちゃんと干支まで把握しておいてくれた訳だ。

さて、今年の干支は 丁亥(ひのとい) だが、「亥」 とは 「猪」 のことだと言うのは日本だけのようで、中国や韓国では 「豚」 のことらしい。 今回も瀋陽市内でとても大きな金色の豚を見た。 ギネス認定の 世界一の豚の貯金箱 だという。

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2007年5月 9日 (水)

52年ぶりの吾が娘に・・(2)

「モバイルインタープリター Mobile Interpreter (携帯通訳)」

Shenyangap0752 5月初めは中国でも連休 (5/1~5/7 = 国際労働節) である。 その二日目の午後、瀋陽桃仙国際空港の入国通路のコーナーから、81歳の老婆とその弟夫婦が、カートに荷物を満載してゆっくりとした歩みで現れた。 若ければきっと、そちらで花束を持って待っていた二人の娘に向かってダッシュしたことであろうに、ただ片手を挙げてそれをゆっくりと揺らしながらの老婆の歩みを、付き添う私達も、迎える人々も、誰も急かすことは出来なかった。 52年間の別離から見れば、それはほんの一瞬の、贅沢な甘酸っぱい焦燥に過ぎなかったのだ。

老婆が29歳の時、満蒙開拓団の残留婦女引上げの誘いに抗し切れず、止む無く現地に残してきてしまった二人の娘は、当時 5歳 と 2歳、それが今、総計 15人 もの家族群になって、「グランマ!・・(お婆ちゃん!・・)」 と呼びながら感涙の抱擁を繰り返す。 送って行った私どもは 4日半 の滞在だけで帰国したのだが、その間も母娘3人の抱擁は何度も繰り返された。 それはまるで、双方の言葉がちゃんと通じているような情景であった。 そんな筈は無い。 何故なら、娘たちの語りかけは中国語であり、老婆の返事はほとんど日本語だったのだから。 でも、全て分かり合えている風であった。

実は、先方はちゃんと 通訳 を準備して待っていてくれたのだ。 が、その人は当の女性達の中に入る余地など無く、頼りにしたのは私である。 これから姉が瀋陽に長期に滞在するために、それに必要な手続きや打ち合わせがあったからである。 通訳をしてくれたのは、姉の長女の息子の友人の奥さんで、日本留学の経験があり、現在は日本企業の瀋陽支店に勤める美しい女性で、しかし妊娠3ヶ月とのことであった。 だから、こちらの慌しい日程に付き合わせることは危険であった。 実は私の妻は妊娠初期に2度も失敗していてその事は良く分かっていた。 ところが、今回の通訳の手法はまったく素晴らしいもので、それは言わば 「モバイルインタープリター」 とでも名付けたいような方法だった。

先ずは(通訳無しで)、中英辞書をめくりながら打ち合わせを進めるのだが、行き詰ると先方はやおら携帯で、自宅で休養中の彼女に助けを乞うのである。 日本人の精神構造を十分に理解しているらしい彼女の interpreter機能 はそれで見事に働き、私どもは1台の携帯をやり取りしながら十分に意思を疎通出来たのである。 日ごろ、携帯に 「使われているような」 人々を軽蔑の眼で見ていたのだが、これには心底から脱帽した私であった。

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2007年4月27日 (金)

52年ぶりの吾が娘に・・

私の長姉は今度、半世紀以上も前に分かれたままになっていた二人の娘に会えることになった。 その謂れは、姉が満蒙開拓団員の花嫁であったからだ。 昭和19(1944)年に渡満し、昭和30(1955)年に日本へ引き上げて、以来半世紀余り、現在81歳の彼女の人生も、30万人とも言われる他の団員の皆さんと同様にとても苦難に満ちたものであったようだ。 「ようだ」と言うのは、姉はそれをあまり語らなかったからである。 そして私たち弟妹も、(自分たちの都合ばかりが優先してしまって)そのことには触れないようにして来たからだ。

長姉は、私どもの親の没年齢 (母は60歳、父は82歳) を間もなく超える。 波乱に生きて来た彼女は、さすがに元気で、最近になってようよう その姿が亡き母の面影と重なるように見えてきた。 そこで昨年暮れに、私から乞うて、その波乱の思い出を初めて話してもらったのである。 あの大戦の末期、祖国の行く末もつゆ知らず、幾組かの若い夫婦達が希望に燃えて、新天地に向けて出発して行ったのであろう、あの田舎の駅頭にいっぱい振られていた日の丸の旗の波々、その波だけが、当時5歳であった私の記憶に残っている。

Manmounote 希望に満ちた出発であったのに、あちらで待っていたのは厳しい開拓生活、そして夫の現地召集、続く敗戦と ロシア兵からの逃避行、背中に負ぶっていたままの長女の死、・・その内容は、平和ボケの私には想像さえ出来ないとても悲惨なものであった。 話してくれて以来、姉の胸の中に熱いものが燃え始めたのであろう。 たったひと目でもいいから、52年も前に分かれたままの二人の娘に会ってから・・と・・。 その子らは、姉の逃避行の終端でその命を救ってくれた中国人との間に生まれた子達である。でも、その恩人はもう故人とのことだ。

帰国して再々婚した姉は、その夫とも死別し、その家で安らかに過ごさせてもらっている。 だから今迄、あちらの子らに会いたいという気持ちを必死に堪えて来たのであろう。 しかし、もういいのではないか。・・ と、私は姉の願いを叶えてやるべく、色々と複雑な調整や手続きに走り回った。 そして間もなく、姉を連れて行く。 そうだ、あちらで待っているのは、私の姪たちなのだ。

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2007年4月20日 (金)

川の流れのように

「ああ 川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて ♪♪」、美空ひばりの最後のヒット曲 ・・、これを聞くと、昔は豊かだった故郷の流れの風景が目に浮かぶ。 味わいは人それぞれであろうが、私には安らぎと潤いを感じさせてくれる歌だ。 そして、もう一つ別の感慨が湧く。 内外の水利事業の業務に関わって来た土木技術者としての感慨である。

一般市民にはあまり知られていない概念だと思うが、国家には治山治水への責務があり、日本ではその施策の中に、「川の流れを維持する」 という趣旨が明示されているのである。 そのための流れの量を、専門用語で 「河川の維持流量」 と言う。 河川において、水を貯めたり、水や魚を取ったり、航行したり、遊んだり、環境や自然を保ったりするのに、流れの維持はとても大事なことで、しかもとても複雑な利害の絡みの下でそのための施策が進められているのだ。

それらの要件を無視したままに、ただ川の流れを貪り・汚せば、結果は明らかである(例1例2例3)。 悲しいことに、これらの例はいずれも、結果が出てしまった後になってから 「明らかである」 と叫ばれているのであって、人類の歴史とはこんなものかとも思う。  ・・ところで、あまり読みもしない沢山の機関紙やダイレクトメールの中にあって、ある出版社から送られてくる季刊通信だけは文字通り有難い。

重厚で真摯な内容ばかりだから、読むのがとても楽しみなのだが、今回もあの 御歳100才 の 松原泰道師 の 紙上講話(注1) に引き付けられた。 それは 「川の水を全部自分のものと思ってはいけない。 下流の人びとのために、水を戻す」 のだという 道元禅師 の教えについてのくだりであった。 それを実行されたという 「半杓橋」 が架かる 永平寺 の前の川は、多分豊富な流れがあったに違いない。 それでもなお、そのようなお考えが生まれるとは・・、まさしく川の流れのような御心に触れた思いがしたのだ。

注1) ; やすらぎ通信(ユーキャン出版局編集部)2007年春号 p8 松原泰道特別紙上講話 「和敬静寂」 より ・・・ 曹洞宗の祖・道元禅師は毎朝、永平寺の前を流れる川の水をひしゃくで手桶に汲んでおられました。 最後に、ひしゃくの水の半分は川に戻すのです。 これが由来となり、その川にかかる橋は半杓橋と呼ばれるようになりました。 ・・・

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2007年3月11日 (日)

私論茶経(8)= さんぴん茶

Sanpincha 久しぶりに沖縄を訪ねた。 現役時代は仕事で何度も行っていたのだが、その時はあの沖縄そば (特にソーキそば) の美味しさばかりに気を取られていて、気付かなかったもう一つの沖縄の香味を、今回知った。 さんぴん茶 (ジャスミン茶) のことである。 他の ハーブティー に有り勝ちなきつい自己主張も無く、沖縄の料理や風土に良く合った、口当たりさっぱりで、同じお土産の 「黒糖」 とも良く合うし 「泡盛」 を割るのにもいいと言う。 これが地域の皆さんの常用茶であることを納得した。

でも サンピン なんて、どこか貧相な音感がしてしまう。 が、今ネットで調べると、ちゃんと立派な語源があることが分かる。 あの香りの良い ジャスミン は元は ペルシャ語 で、これを中国では 茉莉 と言い、その香りを付けた茶を 「茉莉花茶(モーリーホワチャー)」 とか、とくに中国北部や台湾方面では 「香片茶(シャンピイエンチャー)」 と呼んで、多くの人が愛飲している。 後者が即ち さんぴん茶 の語源である。

そして、ジャスミン茶 にも色々あって、中国緑茶 に ジャスミン の花の香りを付けてから花だけ取り去る (以上の工程を 「イン」 とか 「薫(シュン)」 と言いこれを繰り返して高級品にする) もの、花片を取り去らないもの、変色した着香用花片は取り去るが最後に上等な花片を加える (提花) もの、緑茶 のような 不発酵茶 ではなく 弱発酵茶(白茶) や 半発酵茶(青茶即ち烏龍茶。台湾では包種茶) や 全発酵茶(紅茶) などを基材とするもの、等々実に様々だ。

今、お土産に買ってきたものをよく見ると、この さんぴん茶 は花片を残した 釜炒り緑茶(=炒青緑茶/対して日本の緑茶は概ね蒸して作る=蒸青緑茶) のようで、その素材はほとんどが中国大陸や台湾などからの輸入品であると思われる(脚注)。

今回の沖縄行きは、結婚44年目を記念した観光旅行の意味合いでツアーに参加したものだが、実は別の目的があった。 途中、オプションの行程から離れて、3年前に亡くなった大学級友の留守宅を訪ねたのである。 永年沖縄県下の農業用ダム事業の学術・技術面の指導をしてきた故人は、琉球大学を退官して間もなく急逝してしまった。 仏前で奥様のお話を伺いながら頂いたジャスミンの香るお茶の味・・・、数々の顕賞額に囲まれた彼の顔がとても優しく見えた。

注) ; 台湾が中国茶の産地であるように、南国沖縄の立地もそれに好適のように思われるのだが、地味が適さないのか府県別の茶の生産量では 27位(農林統計H17.2月) であって、所謂茶の主産県ではない。 当地では、琉球王朝時代から明からの交易品として香片茶が 「さんぴん茶 ・ 清明(シーミー)茶」 の名で入ってきていて、当時の大陸には沖縄茶商による現地工場(福建省)もあったという。

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2007年1月27日 (土)

ビルマの秘酒"泡盛"

実に久しぶりに秘蔵の泡盛を飲んだ。ウィスキー が切れていたからで、しかも月末で財務省の財布の紐がきつかったからである。 それに、好きな日本酒を頂くと直ぐ眠くなるし、大好きな芋焼酎も毎晩では口が倦んでくる。 代わりに出してきたのが、あのアルコール分 60%  の与那国の花酒の一つ 「どなん」 である。 既に開封してあったものだから アルコール分 が幾らか揮発していたのであろう、かえってとても飲みやすく、香りも甘さも増していた。 そして、おやっ! これは、あの酒と同じだ! と、20数年前のビルマ(現在のミャンマー)の ○○ワイン を思い出したのだ。 先ず口の中を突く、あのやや鉱物的な風味が同じだと気が付いたのだ。

Promedinner それは、1983、84年と該国の中央部にあるプローム(現在のピヤイ:Pye) に一年間滞在して、サウスナウイン灌漑事業 の実施設計を担当した時の思い出である。 当時は該国産の マンダレービール の入手もままならず、はるばる タイ や 中国 との国境を超えて来る 密輸ビール(日本製) はとても貴重品で、だから、十数人の団員のための毎晩餐の アルコール の調達は団長の私の大きな仕事であった。 そんな中で知ったのが、水源ダムの建設予定地近くの集落で密かに造られているという ○○ワイン のことであった。 ワイン(=醸造酒) とは言うが、それは明らかに 米焼酎(=蒸留酒) であって、生憎その英語 (arac) をみんな知らなかったからで、現地雇いの料理人をして買いに走らせるにはそう言うしかなかったのだ。

今日改めてネットで調べてみて、それらの類似性を納得した。 すなわち、琉球泡盛の原料の米は、日本酒のとは異なる インディカ米 であり、主に タイ産 の 砕米 が用いられると言う。 それは、日本の他の 焼酎(spirits) と違い、東欧から東南アジアにかけて 1,200年 も前から造られていて 「アラック」 と呼称される言わば蒸留酒の原型なのだそうだ。 だから、それが ビルマ の片田舎でも簡単に手に入った訳だ。

あのころ私たちは、これの水割りを飲みながら、「これはインパール戦線からの敗走日本兵が、かくまってくれた土地の人に、故郷を想いながら造り方を教えたものに違いない」 と・・・いつも神妙に味わったものだ。 それは間違いだった訳だが、当時、あちらの カウンターパート(相手国職員)氏 は、そうとも否とも言わないで話題を変えたものだ。 それは多分、それが正規に納税した「酒」ではなかったからだろう。 あの○○の集落は、今頃、どんなたたずまいなのであろうか。 空になった 「どなん」 の瓶からただよい出るあの ブランデー にも似た香りを慈しみながら、懐かしいかの地の今を想った。

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2007年1月22日 (月)

スイッチバック

Itihataguti 先日、妻の「方向音痴」の優秀さを改めて思い知った。 萩・津和野・玉造温泉・出雲大社・松江と巡った山陰への小旅行の時のことである。 団体行動が苦手だから、国内旅行では JR の 「ジパング」 を利用するのだが、これだと、基幹ルートの分は予め日時を決めて割引で購入しておいて、ローカルの足はその日その時で気の向くままに決めていけばいい。 私はそれを毎前夜の宿に備えてある ガイドブックやパンフ を読んで決めるのが好きなのだ。

話は、「出雲大社前」 から 「松江宍道湖温泉」 に向かう 一畑電車 の途中駅 「一畑口」 でのことである。 電車が近づくと案内放送が 「次の駅はスイッチバック」 だと言っているではないか !?。 山岳鉄道ならまだしも、このような湖畔の平坦な所で何故 !?、と驚いた。 急いで手元の観光マップをよく見ると、なるほど駅のマークの向きがおかしい。 しかし、少し離れた山中に 「一畑薬師」 なる 卍マーク を見つけて、その疑問が解ける気がした。 帰宅してネットで調べて見るとやはりそうであった。 私は日ごろ、地図読み(二次元)や、航空機の窓からの位置読み(三次元)に大きな自信があるのだが、今回のように地図上での歴史読み(四次元)を体験したのは初めてだった。

ところが、その駅を出てしばらくして、妻は目をキョロキョロさせて、窓から見える 宍道湖 の位置が変わってしまっているのがとても不思議そうであった。 私はやおら、座席上にスペースを取るべく妻から離れて座って、そこに片手を滑らせて、スイッチバック なるものを説明した。彼女は、そのメカ自体は簡単に分かったようだが、だからと言って何故、窓からの景色が 左右反転 するのかが納得出来ないようで、懸命に説明している私の頭も混がらがってきてしまった。

思うにここは、電車路線の スイッチバック としては世界で一番小さい(又は可愛い!)のではないか?。 他の例にもれず、一畑電車路線存続のために色々と苦心しておられるようだが、この スイッチバック を日本の、いや世界の 鉄道マニア に宣伝して、「遺物」 を転じて 「福」 と成すような試みをしたら如何であろうか、と思ったのだが・・・。 そう言えば、「出雲大社前」 の駅舎も、初めて見たのに、何だかとても懐かしい感じがした。

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2007年1月 7日 (日)

七草がゆ と エーデルワイス

Edelweissセリ・ナズナ・ゴ(オ)ギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ♪・・、春の七草は決まってこの並びで呼ばれる。 反復すると分かるように、語呂が良くて覚えやすく、歌えば初春の気分だ。 一方の 秋の七草 を挙げる時の並びは、今調べてみると、一定していないし、直ぐには全部を挙げられないのは私だけでは無いようだ。 そして、秋のそれらが観賞向きなのに対して春のは食用になる。 寒さはこれからだと言うのに、早くも食卓に春を運んで来てくれるとは、何とも 「味」 のある植物たちだ。 家族はあまり喜ばないが、私はこの青臭い粥を頂くのが年頭の楽しみなのだ。

昔は、野原や田んぼの土手でこれらをみな見付けることが出来た筈だが、そのころの私はこの風習を体験していない。 結婚して家を持って何時の間にか習慣になったのだが、それは七草の パック が スーパー に並ぶようになったからでもある。 それらはちゃんと解説書付で売られているのもいいし、その通りに内容が揃っているのかと まな板 の上に並べてチェックするのも楽しい。 他のは一株づつしか入っていないが ハコベラ だけはどっさりなのにも納得がいく。 故郷では、家畜の餌として探すのに一番簡単に見付かった草なのだ。 実は出来立ての粥が上げるあの独特な「香り」もこの ハコベラ の 「お陰」 なのだ。

さて、この中の ゴギョウ(御形、母子草、ホウコ草) を見るといつも思い出す風景がある。 40年前に研修先の ドイツ・スイス国境 の山で見た エーデルワイス の花である。 ただしこれは、共に同じキク科の花ではあるが、母子草 とは繋がりが薄いようで、薄雪草の仲間であり、形態はむしろ 父子草 に似ている。 それでも、ゴギョウ の葉っぱが細やかな綿毛に包まれているのを見ると、あの白い綿毛に包まれた エーデルワイス の花を思い出すのである。 右上の写真は当時あちらから妻に送った絵葉書で、先ほど彼女が大事そうに取り出してきてくれたものである。

注) ; 画像の中の エーデルワイス は写真ではなくて実物の押し花である。 こんな絵葉書は現在はもう売られていないと思う。 スイスの国花であり、映画 「サウンド・オブ・ミュージック」 で歌われていたこの可憐な花も、今や希少な保護植物になってしまったようだ。

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2006年12月 1日 (金)

巨大なダリア

Dahlia 名古屋市民は65歳になると 「敬老パス」 を持てる。 所得に応じて若干の自己負担が要るがそれでも助かるし、毎年お盆の頃になると最寄の郵便局で更新してもらえるから便利だ。 女性の年齢を言うのは・・だが、この夏から妻ももらっている。 そこで先日、一緒にこれを使おうと我が家とは反対側の郊外にある緑地公園に出掛けた。 その一帯は、洪水時には遊水池になるのだそうだが、普段はきれいに整備された総合公園で、あちこち歩いてとてもゆったりした時間をもらった。 左上の写真は、帰り際にその正門付近で見た、巨大なダリアの植え込みである。

この 「木立ダリア or 皇帝ダリア」 を、私は今日初めて見たのだが、以前その苗を園芸店で見たことがあるという妻も、これほどに巨大になるとは知らなかったらしい。 説明板には、こちらの方が古くて一般のダリアの原種なのだとあってなお驚いた。 原産地はメキシコらしいが、いつ、どこを経由して、誰たちの手によって、現在のような色とりどりでかわいいダリアの花々になってきたのであろうか?。 その名は、手元のぶ厚い園芸書にも載ってないので、例によってネットで調べてみたのだが、興味はいつの間にか日本のお花の歴史に向かっていた。

当たり前だが、花は有史以前から野に咲いていた。 それを糧や薬として食べた動物は他にも居ようが、唯一人間はそれらを愛でることが出来、そして自分達の生活の中に取り込んできた。 その文化史を辿れば、多分、言葉や文字の歴史にも劣らない多様さなのであろう。ちなみに 「万葉集」 の中に詠まれた植物は 150種 以上だというが、それらは多分栽培されたものでは無く、みな自然の中にあった筈だ。 そして、仏教伝来と同時にもたらされた 華瓶(けびょう)は、燭台 ・ 香炉 と合わせて(仏前の)三具足 と言われるが、これが日本での最初の花器であり、聖徳太子がこれに花を生けたという飛鳥時代の記録があるらしい。

室町時代の 「阿弥」 とはそもそも花を生けるのを職業とした人だということ、江戸時代に日本の園芸が文字通り大きく花開いたこと、幕末にドイツ人シーボルトが 「日本植物誌」 を著して日本の花々を西欧に紹介したこと、その頃から花卉・球根の輸出入が盛んになったこと、戦中には日本中のガラス温室が (敵機からよく見えるので) みな壊されたこと(脚注参照)・・・。 そして今、手元の園芸書の目次を数えるとその花卉植物名は 約2千5百項目 もある。 ちなみに、チューリップやカーネーションはもちろんのこと、アザレア・アマリリス・ガーベラ・グラジオラス・ゼラニウム・ストック・スターチス・ダリア・ヒヤシンスなども、名前はみなカタカナだが、戦前から日本にあった花々なのだと言う。

注);名古屋東山動物園には戦時中に象の命を救った話がありその余話も多いが、同植物園の方は軍の圧力に抗してあの大きなガラス温室を壊さずに守った。来春の築70年に先立ち、この度これが国の重要文化財に指定されることになったようだ。

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2006年11月17日 (金)

猿神退治

日本の昔話の中に 「猿神退治」 という類型がある。 村の未婚の娘を、生贄(いけにえ)として毎年要求してきた 「猿神」 を、旅の男(例外もある)がみごと退治する話で、全国に色々な内容で伝わっているらしい。 最近私は、それが素朴に伝承されている場面に出会った。 11月はじめに、高山市荘川町(旧荘川村)で催された 「荘川再発見ウォーク」 に参加したからだ。 昨年から地元の体育指導委員の皆さんが 「荘川新そば祭り」 に時を合わせてやっておられる行事である。 快晴のもと 秋の彩りが始まった荘川沿いの 7km の遊歩も嬉しいものであったが、コースの途中で聞いた民話の方に密かな興味があった。

Sarukami それは、荘川インターチェンジのある 「猿丸」 という土地に残されている 「猿神」さん という 祠(ほこら) を前にして聞いたお話のことである。 実は、私がこの地名を知ったのは、今から二昔も前、この地域で山小屋を作るのに相応しい土地を探していた時だ。 そのころから愛読していた、司馬遼太郎著 「街道をゆく」 の第4巻の中の 「郡上・白川街道」 にこの地名があって、以来、そこを通る度に、著者が著わしたあの奥深い人里の、何故かそこここに懐かしさ漂う風景を味わったものだ。

面白いことに、今回の民話の内容は、彼が紹介していた 「今昔物語」 の中の説話の内容とは主人公が異なっていた。 すなわち原著の中で、猿を退治した若い僧侶は、その民話ではなんと 宮本武蔵 になっていたのだ。 民話は口伝えで継承されるものだから、内容が変化するのは当然のことだろうが、実在の人物をして その人が来ていない土地に登場させることは、遺すべき文化としては好ましいことではないなと思ったのだが・・。

帰宅して、「街道をゆく」 を再び読んだり、ネットで検索して見ると、この種の説話についての研究や資料が実に豊富にヒットしてきて、驚いてしまった( 例1例2例3 )。 これによく似た話は類型的に 「猿神退治」 とか 「猿の経立」 と呼ばれていて、あちこちに流布しているのだという。 ちなみにこの場合の 「経立」 の読みは 「ふったち」 又は 「ふったつ」 であり、「年を経て立ちはだかるほどになった妖怪」 という意味らしい。 しかしそのことは、昨日行った県立図書館のどの辞書・辞典にも載っておらず、帰宅してググってみて始めて分かったのだ。 かくして今や、世界を覆う IT の巨大な館(やかた)は、古い日本語の検索さえも一般の図書"館"より強力な環境下にあることを実感したのである。

注) ; 今昔物語集巻第二十六 「飛騨の国の猿神、生贄を止めたる語」 の現代語訳は多数の国文学者によって出版されているが、これらをそのままサイトに転載することは許されないので、自分の言葉で意訳して、荘川が大好きだった愛犬のHPに載せることにした。 少しずつなので未だ途中である。  なお、上記の説話例1、2、3は、離れた場所で一つのお話が別の主人公名で伝承されているもので、そのお陰で両地が姉妹都市になったと言う珍しい例である。 更になお、これら 「猿神退治」型説話 の起源は中国の 猴娃児娘(ほうわるにゃん)型故事 だとも言われている。  

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2006年10月28日 (土)

木組みの館

Deutscheshaus_1 今回の南ドイツの旅は都会を避けて昔の街道や森や河を訪ねたものだったから、いずこでも中世の美しい建物を見ることが出来た。 有名な城や教会はさておき、眺めて味わいがあったのは古き街並みを構成する大きな町屋の数々である。 町屋と言うよりは館という感じで、一軒を一家族だけで持っているとはとても思えない大きさであった。 通りに面した所では、一階(や二階・地下)部分が店舗になっていて、全館が ホテル になっているのもある。 中には アパートメント方式 の貸し部屋になっているのもあろうが、窓々から吊るされた鉢花の 建物毎に統一された見事なアレンジを見ると、とても別人たちが住んでいるとは思えないほどだ。Rothenburg08

思い出に浸りながら今調べてみると、ドイツ中南部 に残されているのは フランケン様式(一部アレマン様式を含む)の木造家屋 (Fachwerkhaus) だと言われている。 歴史的には石の文化圏と言われるヨーロッパにあって、ローマ人によって伝えられたその(石やレンガによる) 「組積造」 に対して、ゲルマン民族 が独自に創り出し 現在まで遺して来たものだと言う。 それは日本でいう 「木造軸組工法」 の内の 「真壁構造」 に相当するもののようだが、彼我の違いはその大きさである。 急勾配の大きな屋根を見ると、あの合掌造り(せいぜい4階まで) を思い出すのだが、あちらのは 5階から7階建て まであるのだ。

Tanzhaus 両者の構造にはもっと基本的な違いがあると言う。 専門的なので表現が難しいが、その構造の ユニット は日本家屋では一軒で一つ (=一体になって地震に抵抗する) だが、あちらでは階層毎に また大きな部屋毎に別々のユニットが積み上げられて全体を一つのように見せている ? のだと言う。 よって、柱は各階で分断されていて、いわゆる心柱とか通し柱に相当するものが無いのだそうだ。 だから何階建てでも出来るのだそうだ?。 が、多分地震には弱いのであろう。

ところで、この建物の実物を琵琶湖畔で見られるらしい。 ロマンチック街道の始点の都市 ヴュルツブルク と姉妹の関係にある大津市の 「なぎさ公園」 にてである。 今回は、その移設にご苦労された 滋賀県立大学 の 水原先生のサイト で色々勉強させて頂いたのだが、お恥ずかしながら 我が日本家屋の構造についても初めて知ることが多かった。

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2006年10月25日 (水)

タイのシンカンセン

今朝の東海道新幹線静岡駅での人身事故は、こともあろうにJR職員の飛び込み自殺らしい。 死者に鞭打つ気持ちは更々無いが、若しこれが大きな事故になってしまっていたらと思うと慄然とならざるを得ない。 「 開業以来、(車内の)乗客の死亡者ゼロ 」 という偉大な記録を更新しつつある日本の新幹線を、彼はどう思っていたのであろうか。 この安全運行への努力は、機械・電気・土木・運行管理・人事管理・IT 等々の諸要素を集大成しつつ現在も組織をあげて続けられていると言うのに。

新幹線を shinkansenn と書いて シンカンセン と読むと、これはもはや国際語である。これを十分知り、傾注する人は、鉄道関係者のみならず世界中に沢山居る (例1) (例2) (例3) (例4)。 東京オリンピック開会直前の 1964年10月1日 に開業して以来 今日まで延走行総距離は 数十億km に及ぶ筈で、地球と月を 数千往復 した距離に相当する筈だ。 日本が誇れるものは数々あろうが、これこそ非常に大きな誇りであると皆が思い、鉄道安全への国民的な協調を持ちたいものだ。

この事実と、欧州諸国でのいわゆる新幹線事故の多さとを比較すると感慨はなお更である。 一方、昨夜の報道によれば、台湾の新幹線の開通は既に1年遅らされて来たが、更に遅延するようだ。 遅延の不名誉などは気にしないで、安全のために十分な準備をしてほしいものだ。

Shinkannsen_1 ところで 一昔前に私は タイ国で、既に シンカンセン を見ている。 その名は、当時の日本の新幹線車両にとても良く似た食べ物に付けられたもので、私にはとても美味しいものであった。 その珍味は、チェンマイ近郊の水資源開発計画に従事していた時に王立灌漑庁の技師達が地元の焼き鳥レストランで、密かに教えてくれたものだ。 それは現地の竹藪に発生するものらしく、サイズは右上の写真のよりはるかに小さくて色は白かった。 椰子油で炒めて皿にいっぱい盛られて供されたが、私の大好きな シンハビール にとてもよく合った。

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2006年10月21日 (土)

「黒い森」の民宿で

Cafewasen 「北部黒い森」の中、ナゴルト川の源流域に ゲッテルフィンゲン という小さな村があり、そこに カフェ・バーゼン という民宿がある。 39年前、近くのダム現場での50日間の研修中に私が泊まった宿である。 兼業農家の若夫婦と、おばあちゃんと、赤いホッペのお嬢ちゃんと、誕生日前の坊やの一家だった。 他に客は、ルーマニア 系の老夫婦だけで、彼らはとても長期に滞在していた。

Goettelfingen67_1 朝昼晩の3食ともそこで頂いた。 ただし、土日は一切お構いなしだったから、日帰りや一泊で出掛けて、国内の出来る限り多くのダムを見学した。 車はもちろん フォルクスワーゲン。 ケルンを発つ時に中古を買ったものだ。 今回の旅を レンタカー でやるという蛮勇が生まれたのは、その経験があったからだ。 でも、当時の アウトバーン は、今よりはみんな (ベンツ以外は) ゆっくりと走っていたように思う。

さて、その一家の皆さんはもとより、村の誰も英語を話さなかった。 こちらの英語だってハナセルほどではなかったから丁度いい。 ドイツ語の辞書をめくってはやりとりをしたものだ。 やや足が不自由だが、いつも笑顔のおばあちゃんは台所を担当していた。 豪華ではなかったが、私にはとても美味しい料理だった。

Goettelfingen06 久し振りに訪れてみると、道路も良くなっていたが、村の家々も随分と新しく賑やかになっていた。 その民宿の建物はそのままであったが、新しい往還道が裏側に出来て、昔のそれが裏道のようになっていて迷った。 もう オフシーズン だし、家人は農作業に出ていたのであろうか、玄関は閉まっていて人影はなかった。 宿の経営はあの坊やが継いだのであろうか?。 数年前、英語で書いて送った手紙の返事は無いままだ ・・ 。

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2006年10月20日 (金)

39年後の ナゴルトダム

Nagolddam 私どもの南独の旅の前半は 文字通り ロマンチック を追っかけたものだったが、後半はセンチメンタルなものに変わった。 ローテンブルグ の宿から マインツ の宿に移動する途中に、私が 1967年 にダム建設の実地研修をした ナゴルトダム に立ち寄ったからである。 このダムサイトは基礎地盤が弱いので コンクリート造り を止めて ロックフィルダム として築造されたのだが、堤体の芯で水を止めるための 粘質土 が付近で採れないので、代わりに池側の斜面をアスファルトで舗装して漏水を防ぐという特殊な工法を採ったものである。

Nagoldwork67 アウトバーン を下りて一般国道から地方道へ、黒い森地帯の北東部にある ナゴルト谷 に沿った道は、既に秋の彩りが始まっていて、早朝からの高速走行で体が硬直してしまっていた妻はやっとリラックス出来てご機嫌になった。 このダムは多目的で、洪水調節と ナゴルト の町への上水源と発電を兼ねているのだが IT で遠隔操作をしているのだろう、管理所に人影は無く、会ったのは散歩の老夫婦と、ローラースケートでダム湖を周回している雪待ち顔の男性だけだった。 上流側斜面の舗装は 39年 を経ているとは思えない程にまだ新鮮な黒色をしていた。

「ドイツで学ぶならドイツ語を話せ!」 とは、ケルンの受け入れ機関でよく言われたことだが、現場でそういうことを言う人はいなかった。 「技術は見て盗め」 と言う程の冷たさもなかった。 ただ皆、特殊な工法を実践しているという自負と真剣さとで、実に厳粛でしかも豪快な雰囲気があったことを思い出す。 工程に大きな区切りが付くと、沢山の ブルスト(ソーセージ) を仕入れて来て、ドラム缶で茹でて振舞ってくれたものだ。

Nagolddam2 私は舗装の専門家ではなくて、ダム構造物一般の設計を仕事としていたので、あの工事現場で見るべきものは他にも数限りなくあって、日本のそれらとの違いを確認したり感心したりしながら ノート片手に毎日々々歩き回った。

このダムより 26km 下流にナゴルトの町があり、更に 26km 下ると カルフ(Calw) の町に至る。 ノーベル文学賞を受けた ヘルマンヘッセ の生まれたところだ。 「車輪の下」 を始め彼の青春文学作品には ナゴルト の流れがよく登場するという。 当時は勿論、今回の旅に際しても私はこのことをまったく知らなかった。 我が青春は もうはるかに 遠い ・・ 。

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2006年10月19日 (木)

丸い帝国自由都市 ネルトリンゲン

Meteoriteimpact 私共の南独の旅の第4日目には ロマンチック街道中央部の リース盆地 にある ネルトリンゲン を訪れた。 リース盆地 が実は、1500万年前に起こった隕石の衝突によって出来た盆地であったと言うことは、今からほんの45年前にアメリカの二人の地質学者、シューメーカー教授 と チャオ博士 によって解明されたのだと言う。 左の画像はその衝突の想像図である。

そのパンフを読むと、隕石の直径は約1km、衝突時に出来た直接の窪地は直径12km、在来の岩石が衝撃と高熱で溶けて押し出されて出来たクレーターは直径25km、その時の総エネルギーは ヒロシマボンブ の25万倍だったとある。 この事実が解明される前までの、この地の人々は何かを感じていたのであろうか?。 何も知らないままに、このような円形の都市を造ったのは、何故であろうか?。

Noerdlingen ネルトリンゲン は中世のドイツに多く成立した「帝国自由都市」の一つだと言う。 地方領主や司教をいただかず、皇帝直属の地位をもって一定の自治を行使した市民は、自ら外敵を防御したのであろう。 一定面積の居住区を守るのに最も効率的な (短くて済む) 城壁は円形である。 ただし食糧は外側の耕地で作った筈だ。 右上の衛星画像で、耕地のラインまで丸く見えるのはその効率のせいであろうか?。 それとも、時速7万kmで衝突し、地中1000mにまで突き刺さって溶け散ったあの隕石のパワーがなせる業なのであろうか?。

Suevite 町の中心にある 聖ゲオルグ教会 は15~16世紀に建てられ、その材料には、隕石衝突によって出来た変成岩が使われていると言う。 その教会の、高さ 90m の塔 「ダニエル」 に上ると、町を取り囲む城壁が丸くて、その向こう遥かに見える台地もまさしく外輪をなしていることがよく分かる。 ロマンチック街道の街々の歴史は、掘り下げてもせいぜい数千年・・。 それよりも百万倍も長いこの遠大な地質の歴史を想うと、大きな大きな地球のロマンを感じずにはいられなかった。

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2006年10月18日 (水)

旅先のインターネット(5)

「ドイツ鉄道のネットサービス」

Icekoelnmainz_1 私どもの南ドイツの旅の楽しみの仕上げは DB=ドイツ国鉄 を利用することであった。 宿をとった マインツ から ビンゲン 迄は① RB(Regional Bahn = ローカル普通列車)で、(そこから船で ライン河を下り) コブレンツ から ケルン 迄は② IC(Inter City = 都市間特急)、帰りに ケルン から マインツ 迄は③ ICE(Inter City Express = 都市間超特急)を利用した。1994年に民営化されているのだから、DB を国鉄と呼ぶのは正しくはないが、その規模やサービス形態はいい意味でまさしく国鉄である。

そのサイトでは、英語で、ドイツ国内の全ての駅と列車について、時刻表設定期間内(今は12月9日迄)の希望する列車の検索が出来る。 同じような地名や駅名が他にもある場合は、親切に プルダウンメニュー が現れて正しいものを選択するように指示される。 たった一つの便でなく、幅のある検索結果が出るし、それより早いのも遅いのもボタン一つで追加検索が可能だ。 結果を絞って、そのまま予約のページに入って、(行程101km以上なら) クレジットカードを登録して、自分のパソコン上で発券も出来る。 が、そこまでしなくても、今回は 時刻表検索 だけで非常に役立った。

Dbdocuments クレジットカード は駅頭でも使えて、両替をする手間やレート上の不利を回避出来るのでとても便利だ。 今回の切符は、①は短距離なので プラットホーム にある券売機で現金で (早朝出勤らしき女性に教えてもらって)、②も現金で (券売機の前で巡回していた職員氏に教えてもらって)、③はクレジットが使える券売機で (ここでも巡回職員を探し出して) 短時間で購入することが出来た。 右上の画像は当日に券売機から出力された ドキュメント の数々である (上左が①、右が②、下が③)。  ③の内、先ず客の希望に合う便を教えてくれるのが中央のカードで、これを見ながらモニター上で希望の便を絞れば、人数記載の一枚の切符(左)が出てきて、同時に クレジット決済終了 の インボイス (右)が出力されるという手順だ。

今調べてみると、日本での鉄道旅行にこのような便利さは見付からない。外国からの観光客は、あらかじめ旅行社に頼んで必要な切符を発券してもらっているのだろうが、インターネット から細かい情報や予約・発券を得たり、旅先で自由な旅程を創り出していくスリルはない。 これでは、「観光立国日本」なんてかなり遠い話だと思う。

注);コブレンツからケルンに向けて乗車した時、大きな荷物を棚に上げるのを手伝ってあげた娘さんが私どもの座席を見て、あちらの席へ移るようにとすまなそうに言った。頭上のサインを指して教えてくれたのだが、その席は予約がしてあったのだ。そのサインにはどこからどこまでと表示があって、その区間に障らなければ座ってもいいらしい。DB では、自由席車と指定席車という区別ではなく、自由席の中で客の購入によって予約席が逐次電子的に指定・表示されるシステムらしい。 座席の無駄を防げるので、とても合理的だと思った。

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