台湾

2007年3月11日 (日)

私論茶経(8)= さんぴん茶

Sanpincha 久しぶりに沖縄を訪ねた。 現役時代は仕事で何度も行っていたのだが、その時はあの沖縄そば (特にソーキそば) の美味しさばかりに気を取られていて、気付かなかったもう一つの沖縄の香味を、今回知った。 さんぴん茶 (ジャスミン茶) のことである。 他の ハーブティー に有り勝ちなきつい自己主張も無く、沖縄の料理や風土に良く合った、口当たりさっぱりで、同じお土産の 「黒糖」 とも良く合うし 「泡盛」 を割るのにもいいと言う。 これが地域の皆さんの常用茶であることを納得した。

でも サンピン なんて、どこか貧相な音感がしてしまう。 が、今ネットで調べると、ちゃんと立派な語源があることが分かる。 あの香りの良い ジャスミン は元は ペルシャ語 で、これを中国では 茉莉 と言い、その香りを付けた茶を 「茉莉花茶(モーリーホワチャー)」 とか、とくに中国北部や台湾方面では 「香片茶(シャンピイエンチャー)」 と呼んで、多くの人が愛飲している。 後者が即ち さんぴん茶 の語源である。

そして、ジャスミン茶 にも色々あって、中国緑茶 に ジャスミン の花の香りを付けてから花だけ取り去る (以上の工程を 「イン」 とか 「薫(シュン)」 と言いこれを繰り返して高級品にする) もの、花片を取り去らないもの、変色した着香用花片は取り去るが最後に上等な花片を加える (提花) もの、緑茶 のような 不発酵茶 ではなく 弱発酵茶(白茶) や 半発酵茶(青茶即ち烏龍茶。台湾では包種茶) や 全発酵茶(紅茶) などを基材とするもの、等々実に様々だ。

今、お土産に買ってきたものをよく見ると、この さんぴん茶 は花片を残した 釜炒り緑茶(=炒青緑茶/対して日本の緑茶は概ね蒸して作る=蒸青緑茶) のようで、その素材はほとんどが中国大陸や台湾などからの輸入品であると思われる(脚注)。

今回の沖縄行きは、結婚44年目を記念した観光旅行の意味合いでツアーに参加したものだが、実は別の目的があった。 途中、オプションの行程から離れて、3年前に亡くなった大学級友の留守宅を訪ねたのである。 永年沖縄県下の農業用ダム事業の学術・技術面の指導をしてきた故人は、琉球大学を退官して間もなく急逝してしまった。 仏前で奥様のお話を伺いながら頂いたジャスミンの香るお茶の味・・・、数々の顕賞額に囲まれた彼の顔がとても優しく見えた。

注) ; 台湾が中国茶の産地であるように、南国沖縄の立地もそれに好適のように思われるのだが、地味が適さないのか府県別の茶の生産量では 27位(農林統計H17.2月) であって、所謂茶の主産県ではない。 当地では、琉球王朝時代から明からの交易品として香片茶が 「さんぴん茶 ・ 清明(シーミー)茶」 の名で入ってきていて、当時の大陸には沖縄茶商による現地工場(福建省)もあったという。

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2006年4月20日 (木)

ミリタリーマップ

今から206年前の昨日、当時 55才の伊能忠敬 (1745-1818) が蝦夷地の測量に出発した。 50歳の時に醸造や水運それに下総国佐原の役職等々から隠居し、江戸に出て測量と天文観測を学んだ後にである。 その意思たるや、そしてその成果(#1)たるや、測量士の端くれである私には尚のこと、彼がとてつもなく偉大なお方に思えるのだ。

それは11代将軍家斉の時代で、黒船の浦賀来航は未だ後 (1853) のことだが、既に 1792年には帝政ロシアのラクスマンが根室に入港し通商を求めていたから、幕府にとって蝦夷地の把握は緊要なことだったに違いない。 のみならず、伊能図の有用性は彼の死後も益々高くなり、幕末には英国艦隊がその小図を持ち帰り、日本陸軍は長くこれを基本の図としたという。 これらは関東大震災で全て焼失したと思われていた。

が、近年になって米国議会図書館や海上保安庁海洋情報部から 写本が発見された という。 そもそも地図とは国土を把握した図のこと。 だから今でも多くの国でこれの通称を 「ミリタリーマップ」 と言うのだ。 農業開発や水資源開発のための技術援助の仕事で海外に行くと、私達が先ずやったのは当該地域の地形図 (殆どの国で5万分の1の国土図のこと) を入手することであった。 行き先は決まって国防関係の役所だった。

しかし現在は、例えば日本では、国土の地図を司るのは軍人ではなく文人 (国土地理院) である。  更に今や地形の情報は、国毎の体制や都合を超えて、地球規模で、しかも無料で提供されている。 思うに、ITの時代とは物凄い時代なのだと思う。

Japan 注; (#1) をクリックすると現れるのは実際の日本の地形と伊能図のそれとを対比したもの。 その範囲を現在の GoogleEarth で見たものが右の写真である。(クリック→)

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2006年4月 7日 (金)

私論茶経(6)= 台湾茶

有名な「茶は南方の嘉木なり」で始まる「茶経」は8世紀の唐代に陸羽が著した茶の聖典である。 南方とは大陸中国での南方のことで雲南・広東・広西方面を指す。 だからその中に台湾茶は登場しない。 ただ台湾でも昔から野生の茶葉を自家用に加工して飲んでいたという証拠はあるようだ。 が、商品としての台湾茶の歴史はあの聖典より千年も後のことだ。

それは、18世紀以降大陸の福建省から茶樹と技術者が渡って来て繁殖させ、気候風土が良く、当時の西欧各国の茶需要に乗った輸出志向産物として、茶農の熱心さと茶商の巧みさにより勃興し発展したものだ。 その背後にはオランダ(1622~)、イギリス(1662~)、そして1895年から1945年までここを統治した日本などの外国からの政治的経済的な影響も見落とせない。

そんな 「台湾での中国茶」 を垣間見たいという思いもあって、先月私は初めて台湾を訪問した。 慌しい旅で、また季節的なこともあってだろうが、何が見えたのかはっきりしない。 ただ私が強く感じたのは 「茶」 の香りそのものより 「茶商たち」の風景だった。 元気なのは 「茶」 ではなく「商人たち」 だなと思えたのだ。

Taiwantea 左のグラフは、帰国後にあちこちのサイトを調べて私がまとめたものである。 これを見ると、耕作面積と生産量の推移から戦後の30年の茶農法の進歩が覗えて好ましい (日本茶の反収にははるかに及ばないが)。 その後の25年間は生産量が横ばいで輸出量激減だから、いわゆる外需から内需への転換が覗える。 これはまた、台湾の著しい経済発展を物語るものだろう。 人件費が上がり茶の生産コストが上がって国際競争力が落ちたのだ。 逆に輸入は20年も前からあって今や輸出量を凌ぐ勢いだ。 そして最近数年の動きに目を見張ってしまう。

輸入量の急上昇に引っ張られるように輸出量が上がり始めたからだ。 これより想像出来ること、それは台湾茶の OEM だ。 実は台湾へ輸入される茶の8割はベトナム茶だという。 そして台湾から輸出される茶の半分は日本向けだという。 「ベトナム産の台湾茶!」、善良な私たち愛茶人は巧く騙されているのかしら?。 でも、茶葉の国籍なんか気にすることはない。 美味しけりゃそれでいいと思うし、はるばる旅をして来た「メイ茶」なのだからそれこそなおいとおしい・・・。

(この記事を書くに当り、池上寛氏のJETRO講演レジュメが大きな参考になりました。)

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2006年4月 5日 (水)

私論茶経(5)= 明前茶

中国大陸に花咲き芽吹く時が来た事を祝うのが清明節(今年は4月5日)だ。 これは「二十四節気」の中で唯一の公休日であり、人々は一家で墓参りに行くと言う。 日本で言えばお彼岸(3月21日)的だが、気候で言えば初春と言うよりも初夏的な風景だ。 そしてこれは、中国緑茶の走りがとても丁寧に作られ超高値で売り出される時期でもある。 言わば日本の八十八夜(5月2日)に相当するのだが、彼我のこうしたズレは、例えば日本の代表的茶所である静岡県の緯度が35度であるのに対して、あちらの産地は(台湾を含めて)それよりかなり南の25度前後に多いことからも頷かれよう。

ただ、「明前茶=中国茶の季節による分類で、清明節以前に作られたもので、貴重である」 とだけ知っていると誤解のもとになる。 この説明に間違いは無いのだが、この場合の中国茶とは緑茶のことであるからだ。 日本では「中国茶=>ウーロン茶=>青茶」という認識があるので、この場合には「明前茶」など無いのだ。 日本での中国茶商さん達が、普段は「青茶」を盛んに宣伝しているのに、この頃だけはみな「緑茶商」になるのはそういう季節の流れが背景にある。 それに実は、中国で産出される茶の3/4は「緑茶」なのである。

ところで、あの茶の聖典「茶経」の著者の陸羽は、当時の茶摘のシーズンについて、「(旧暦の) 2月・3月・4月の間に摘む」 と書いているだけで、緑茶に大事な筈の「旬」については何ら論じていない。 何故なら、当時の製茶法が、まず茶葉を蒸すところは現在の日本の緑茶と同じなのだが、次にこれを杵と臼で搗いて型で成形し、日干しと火焙りとで 「餅茶」と成した のだから、そこには季節感などは入っていなかった訳だ。

Seikolonjin さて、右の写真は中国緑茶の最高峰と言われる龍井茶の産地に臨む杭州市の西湖の衛星写真である。 今はさぞ、「明前龍井」の仕上げに忙しいことだろう。 下方の大河は大逆流で有名な銭塘江で、その時の流れは右上から左下に向かって、普段とは逆になる。(クリックすると拡大する→)

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2006年3月16日 (木)

台湾茶と水

私共の初めての台湾旅行はもっぱら茶飲み旅行であった。 こういう場合は所謂「茶飲み友達」と一緒だといいのだが残念ながら今回も別人とだ。 さて日本でも「木柵鉄観音」という名前をよく見るが、この産地は台北市街からとても近いし (市内)、茶畑の斜面一帯(=猫空)に茶藝館が沢山あるというので午後遅くに出掛けた。 午後遅くというのはガイドブックのお勧めだったからだが、その意味は現地で (アベックさん達の濃厚な振る舞いを見て) やや理解出来た。

ここでは、客席は斜面のあちこちに東屋のように配置されていて厨房とは離れているので、まず受付で茶葉や料理を注文(支払いも)する。 産地だからとて、私は鉄観音に注目して、メニューに並んでいる一番下のを頼んだ。 普通、メニューの並びの一番下は一番上等品だと思っていたが。 が、あそこでは逆で、それに気がついたのはレジがチーンと鳴って、示された値段が想定の範囲を(はるか下方に)超えていたからであった。 今回はいつもと逆だったからいいが、なんでもっと落ち着いてメニューを熟読出来ないのか! といつも思う。

その茶の味は、正直言ってマズかった。 写真付きの日本語の手引書が備えてあって、その通りに熱く淹れても、あの芳醇な風味が出て来ないのだ。 ここで私共は失望した、のではなく、「やはり安けりゃマズいのだ。 こんな味なら名古屋の次男の店の方が勝ってる。 少し持って帰って飲ませてやろう」 と思ったのだ。 その店では、余った茶葉を店名入りのミニサイズの缶に入れてくれる。 帰国して、次男に飲ませて驚いた。 同じものが今度は見事に美味しいのである。 平野久美子女史の言う 真の鉄観音=「オレンジの花の香りとかほの甘いヴァニラ香が溶け合って」 いるみたいな気持ちがしてくるのだ。

同じ茶を同じように淹れたのに味わいがなぜこんなに違うのか?。  思うにその答えは、彼我の水の違いのせいであろう。 台湾の水はきつい硬水だという。 そう言えば昔、海外生活でよく硬水を煮沸して使ったものだが、持参した緑茶パックがとてもマズかったことを今更のように思い出す。

それにしても、日本の水の美味しいことよ。 特に我が名古屋市の水道水はピカ一だ。 昨今、ミネラルウォーターが喧伝され、市内のスーパーにも○○水のスタンドとかサーバーとかが置いてあるが、そんなアホな!(失礼) と思えて仕方がない。

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2006年3月15日 (水)

私論茶経(4)= 茶菜

「茶経」とは中国唐代の陸羽(8世紀)が著した茶についての不朽の聖典である。 そのタイトルを流用するとは恐れ多いことだが、上の題意は 「茶についての私の思い」 と言うことに過ぎない。 さて、「茶経」が言うところの製茶法は現在の中国ではもはや主流ではなく、特にその前段(茶葉を蒸すこと)はあちらでは殆ど消滅して日本の緑茶に伝えられているのみだ。 また後段の加工法は今は「緊圧茶」の形で残り、西南の諸州から主として辺境少数民族用に移出されているのみである。 更に、製品を全て飲用してしまうと言う当時の作法も現在では一般的ではない。

ただ、茶葉の加工品を(貯蔵したり移送したりした後に)結局は全てを食してしまうという形態は各地の民族的な文化として今も色々と伝えられている。 そして現在、その理念はもはや民族文化を超越して、いわゆるアイデア食品として世界中に大きな広がりを見せているようだ。 「茶葉料理」 のことである。中国語圏ではこれを 「茶菜」 と言うらしい。

今回の初の台湾旅行に当り、始め私はこれをあまり強くは意識していなかったのだが、 「坪林」 という茶産地を訪れて偶然それを味わう機会を得た。 それは茶摘みのオフシーズンだったことが幸いしたことで、もしあそこの茶業博物館が改修中でなかったら、見る物の多さと混雑とで、その機会は無かっただろうと思っている。 当日、私達夫婦は二人だけの館内見学 (工事中なので入場料は取られなかったが、やっていたのは入り口のペンキ塗りだけだった) を満喫して出てきたのだが、館内の茶芸館も休業中だと知ってはたと困った。

その朝バスを降りてすぐ、豚の顔半分がぶら下がっている店を見てしまった妻は食欲の無い空腹というジレンマ風の足取りでよろよろついて来たが、ふと、看板だけが立派に見える食堂に気づいた。 「合歓茶宴風味餐廰」 とあった。 茶という文字が入っているのに引かれて、妻を急かすようにして入ったのだが・・。 それは、今後いつまでも忘れられないようなとても嬉しい経験の入り口であった。

メニューの写真を見る限り中華料理そのものなのだから、もともと肉や脂に弱い妻の顔は益々青ざめて行く。 でも、どの料理にも 「茶」 という文字が入っている。 薦められたセットメニューでは食べ切れなかろうと、4品だけ頼んだ。 出てきたものはやっぱり中華料理だ、・・ が、口にした妻の表情が緩んだ。 私の方は元より何でも OK だ。 中でも 「茶葉の天婦羅」 と 「小海老と翠玉茶の唐揚げ」 の食べやすさは忘れられないと妻は言う。 彼女にとって食べやすいとは、私にとって超美味だということなのである。 あの量の4品を二人できれいに平らげたことも記録的なことだ。

pnlnnemu 帰国後にネットで調べていたら、この店を紹介する日本語のサイトを発見した。 茶葉料理も素敵だが、インターネットもすごい。

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2006年3月13日 (月)

台北101

私共の初めての台湾旅行はたったの3泊4日で、滞在したのは首都台北だけだった。 とは言え、数年前までは殆ど知らない国であったのだから、海外勤務の多かった身としては久しぶりに胸躍る旅になった。 たぶん今後も訪問する国になるだろうからと、そんな意気込みで、先ずは世界1高いビルという 「タイペイ101」 に登った。 ここの世界1は色々あるらしく、例えば、尖塔トップ=EL.508m、建物屋根=EL.448m、実働フロア=EL.438m、エレベータ速度=1,010m/min、揺れ止めダンパー重量=660t などが挙げられている。

展望室 (89階、EL.382m) から見る台北のパノラマは、JRセントラルタワーズ (51階、245m) から見たことがある名古屋のそれよりは中々美しい。 位置が高いことは勿論、国が違うことも勿論だが、更に何かが違う・・。 そう、あの赤茶けた鉄道の操車場が見えない (市街部分では地下にもぐっている) のだ。 台北の新名物のMRT(いわゆる地下鉄)が地上を走る部分があるが、見えるラインはスマートだ。 そこここの公園の植え込みのラインも色も美しい。

taipei101 今回の旅では台北近傍の茶所である坪林や木柵・猫空を訪問した。 そこから帰って来て、もう一度101に登って見たくなった が 時間が無かった。 台湾では、高い所ほど良い茶が採れると言うが、そんな山々を世界1の超高層ビルからもう一度遠望して見たかったのである。 世界では高層ビルの高さ競争が今も続いている。 この101も、来年には世界1の座を譲り渡すことになると言う。

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2006年3月12日 (日)

ウェブメール

海外の出先からメールを出す方法には色々ある。 二昔も前、そもそものメール草創期の一般ユーザーは 「パソコン通信サービス」 とか 「草の根BBS」 と言われたサービスの会員となることでメールをやり取りすることが出来た。 そして海外へ出掛ける時はパソコンと信号変換器(モデム)とその国の電話回線に合うコネクター(モジュラージャック)とを持参して、国際電話経由で自分が加入しているサービスに繋いではメールをやり取りしたのだ。 その内大きなサービスでは海外にノード(アクセスポイント)を置いたり、ローミング(相互中継)を整備して、そこに電話すればサービスに繋がるようにした。

その後、メールの受発信の技術も便宜も進展して、1999年頃からブラウザ上でも (メール用のソフト無しで) これらをやれるようになった。 これがウェブメールである。 これでもう自分のPCからの回線を専用のメールサーバーに繋ぐ必要が無くなり、当該サイトのURLさえを知っておれば、世界のどこからでも自分のメールボックスを開いて読み書きが出来るようになった。 残る問題は、出先で使うパソコンの言語環境が万全では無いことである。 そういう場合はカナ漢字が使えないので、英語とか、ローマ字綴りの日本語で書くことになったり、受信したメールが文字化けで読めないことにもなる。

実はその1999年に、日本人が出掛けてもその種の問題が全く無い外国があることを知って感動したことがある。 韓国である。 そのホテルの客室にはインターネットに繋がったままのパソコンが無造作に置いてあったものだ。 それは、私が自宅にブロードバンドを導入する3年も前であり、しかもそのPCでは英語やハングルはもちろんのこと中国語も日本語も使えたのである。 当時から、韓国のITは日本のそれより遥かに先を進んでいたのである。

さて今回、初めての台湾旅行をしたのであるが、多分この国でも・・ と期待しながら、念のためにと、ビジネス街にある高級ホテルを選んでおいた。 が、期待は外れた。 部屋にPCは置いて無く、地階のビジネスセンターのPCには日本語環境は入っていたが 使用1分当りで 10台湾ドル も取られた。 ただこれは、台湾を代表する風景では無いのだろう。 どうやらホテルの選択を間違えたようだ。

と思ったのは、ある免税店のパンフに、Free Internet! としてあって幾つかのPCに向かっている若い客の写真が載っていたからである(免税店に行くのは大嫌いだが)。 あのホテルはどうやら名前だけで実態はもうかなり古いのであろう。 事前にチェックしておけば良かった。

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2006年3月11日 (土)

私論茶経(3)= 茶の季節

pinglin ♪夏も近づく八十八夜・・、日本の茶は季節の流れに乗ってやって来る。 中国茶も同じ筈だ。 なのに、関係する紹介本を幾つ読んでも、この流れを感じ取ることは稀だ。 理由は簡単、日本茶=「緑茶(不発酵茶)」、中国茶=「緑茶から紅茶まで各種」、台湾茶=「大部分が発酵茶」、だからである。 すなわち、緑茶は茶葉の中に茶摘みの季節の風を取り込んだままであるのに対して、その他の(発酵)茶は「季節を殺して」その奥に隠れていた茶葉の旨味を出そうと加工したものなのだ。 物騒な言葉だが、実際にあちらでは、茶葉の発酵をコントロールするのに「殺青」という加工段階がある。 ただし、殺青をしないで完全に発酵させた茶(=紅茶)や、茶葉を宝物のように丁寧に摘んでただ乾燥させただけの茶(=白茶)もある。

この「殺し」の技術と程度の差とから色々な茶が生まれている訳だ。 加えて「茶畑の標高」をも茶の値打ちの重大要素に仕立て上げたところが台湾茶の売りだ。 このような「台湾の茶の風景」を少しでも見られたらいいなと言うのが、今回の私の初めての訪問の目的の一つだった。 ところが、時期をひと月ほど間違えたようだ。

日程の関係で今回は台北だけでの滞在だったので、近傍茶産地の坪林(ピンリン)と木柵・猫空(ムーツアー・マオコン)と 市内の 茶芸館 とに出掛けた。 事前に読んでおいたガイド本のお陰で、地下鉄とローカルバスの利用はスリリングで楽しいものだった。 あちらではバス停のアナウンスが無いし標識も目立たないので、らしいタイミングで、準備しておいた書き物を指差して地元の人に助けてもらったのだが、私の好きな旅情とはそんなものだ。

やはりあちらでも、茶で活気立つのは清明節 (春分後15日目、4月5日前後) の頃なのだろうか?。  だからか 坪林茶業博物館 はシーズンオフの改修工事中で入場料を取らなかった。 また 猫空の茶畑 にも新芽の気配は未だ無かったし、域内の 茶芸館群 も閑散としていた。 観光地の人ごみは嫌いだが、あまりに空いているのも寂しいものだ。 今度来るときには、季節にも留意して、高山茶の産地にも行ってみたい。 台湾の茶だってちゃんと四季の中で生きている筈なのだ。 ただし都会の茶商さんたちは別で年中暇無しなのだろうが。

maokong 帰国の日、空港までのガイドの虞(ユー)さんの話に、ようよう、台湾茶の本当の風景を見たような気がした。 彼女のお父さんは85歳でまだまだお元気、覚めてはお茶、語らってはお茶、歩いてはお茶、食してはお茶・・・、水は全く取られないのだという・・・。

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2006年3月10日 (金)

両替の極意

42回目の結婚記念日の3月上旬に、初めての台湾旅行をして来た。 海外に出掛けると、先ずは両替のことが気になる。 それは39年前にローマ空港内の公設両替所で、見事な手さばきでレートをごまかされて以来のトラウマによるのかも知れない。 他にも、技術援助で途上国に滞在した時には、現地通貨の入手の場面で様々な思い出が残っている。

今回は、話題の中部国際空港(旅客1500万人未満規模で"AETRA2005"第1位)を利用するのも初めてであった。 が、やはり銀行支店の両替所(A)の大変な混み具合が気になった。 その人ごみの中を支店の幹部らしき人が 「ここ以外にも両替所があります。レートは分かりませんが(そちらの方が)いいようです・・。」 と小声で言って回っていた。 あまりの混雑でそうしていたのであろうが、いつもやってることの様にも見えた。

多分これは「空港内郵便局(B)でも両替が出来る」ことを言っていることだろうと思ったのだが、出国手続きを済ませて搭乗ゲートに向かう所に外資系の両替所(C)があるのを見付けてなるほどと驚いた。 そこはあまり混んではいなかったし、搭乗までの時間や気分に余裕のある客にはとてもいい立地だと思った。 台北空港でも入国手続きの前(D)と、後(E)とに銀行の両替所があった。

さて、外貨両替についての私の極意は 「外地でも日頃のATMカード(F)を使う」 ということである。 旅行案内書でも最近はこれを「国際キャッシュカード」と呼んで紹介しているが、私が利用している銀行の場合はこれが日常生活でのカードにもなっていて、郵便局でも使えるしそこでの手数料も後で戻してくれる。 外地でも都会なら、これが使えるATMボックスが簡単に見つかる。 台北ではいわゆる街角のATMコーナーに幾つかの銀行のボックスが並んでいるが、少なくともその中の一つにはそのマークが付いていた。

お金持ちならホテルのフロント(G)や、土産物店(H)で替えたりするのであろうが、ビンボーな私はそれを好まない。 色々と調べてスリルと旅情を味わうのが好きだからだ。 もちろんATMを使う時には、妻を反対向きに立たせておいたから近寄る人はいなかった。

念のために今回の台湾ドルの購入レートを良い順に並べると、当日の銀行発表値 (\3.65/NT$) に対して、 (D)=\3.70、 (E)=\3.71、 (H)=\3.72、 (F)=\3.77、 (C)=\4.03、 (G)=\4.07、(A)=\4.11、 の順であった。 なお(B)は台湾ドルを扱わない。(F)の値は帰宅後にネット経由で元口座の出金記録を見てそれから逆算したものである。 現地の安全面からは十分に留意しなければいけないが (私の場合は強そうなガードがいるので助かる(^ム^) )、(F)のキャッシュカードの便利さは今や海外旅行でもお勧めだと思う。レートも悪くはない。

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2006年2月28日 (火)

私論茶経(2)= 茶の大国

2月22日の記事で、一般に言われている紅茶の効能についての疑問を書いた。 かの「茶経」は、その第1章後半に茶の効能を詳しく説いているというが、もちろん紅茶のことは(厳密に言えば緑茶も黒茶も)登場していない。 ただ、昔も今も、全ての茶はツバキ科ツバキ属の永年性の常緑樹 Camellia sinensis の葉から作られることに違いはない。 違うのは、時代とともにその加工と喫茶の型式が多様になり、その産地も交易の動向も世界規模で推移して来ているいるということである。

そのことを承知しないままに断片的な茶の情報をかじると、とかく誤解を生じてしまう。 私も色々な関係書物を読んで、目からウロコの発見も多くあったが、晴れぬ疑問が益々濃くなるような思いも多い。 特に、「今現在の茶(の動向)」については分からないことばかりだ。 そこで今日は国連食糧農業機関(FAO)のサイトを検索してみた。

faostat04 FAOのサイトの統計資料は膨大で、希望のデータを探し出すための入り口のメニューを理解するだけで汗が出る。 そこから世界の茶貿易の最新統計をピックアップして来て編集したものが左の画像である。 これらの数字から、こんな感慨が沸く。

1、英国は本国では茶葉を生産出来ないが、輸入して高級紅茶にしてそれを輸出して来た。 が、その勢いは低下しているようだ。 それに対して、輸出上位の国々は一方で茶を輸入してもいる。 茶葉の生産のみでなく加工にも力を入れている証拠だと思われる。 まるで、茶の「旨味」を旧宗主国から取り返すかのように見えて痛快だ。

2、その内ケニヤの活力が低下したように見えるが、一時的な気候変動が理由のようだ。 高地特有の気候に頼る茶産業は不安定だ。 でも、そのケニヤ高地で今凄いものが続々と生れているという。 マラソンランナーである。 2005年マラソン世界ランキング50傑の内、実に35人がケニア人選手なのだと言う。

3、「中国から輸出される茶は"中国茶"である」と言うのは大きな誤解の元になる。 大陸中国で生産される茶の75%は緑茶であり、日本もそれを輸入している。 では、本当の (狭義の) 中国茶 (青茶/烏龍茶など) はどこでどうなっているのか?。  この宿題を胸に、私は始めての台湾旅行に出かける。 だから3月上旬は、このブログも休みになる。

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2006年2月 5日 (日)

台湾農民の父、八田與一

今日、かっての大学級友から嬉しい資料が送られてきた。 台湾嘉南平野総面積15万haの潅漑事業の父、八田與一についての報告文だ。 私は、この人物の話に接する度に感動を繰り返す。 それが大正から昭和初期にかけてのかなり昔の事業だったこと。 このように広大な農地の潅漑事業を日本人一人で企画し監理したという例は他に無いこと。 なにしろ、例えばその総面積よりやや広い香川県の平野部を潤している香川用水が、約3万haの受益面積で、それが日本一だと言うのだから。

なのに、この人物を知る日本人は極めて少ないこと。 それを憂えてか、現代日本人への元気付けの為にか、 この人物像を伝え続けている外国人がいること。 それは日本人よりも日本人だと言われる台湾の人、李登輝さんである。 彼が、慶大の三田祭(2002.11.24)に招かれて準備した講演原稿がそれを語る。 残念ながらその講演は実現しなかったが、後日それを産経新聞が載せている。 以来、八田與一の名前がネットの検索結果にも増えてきた。 現地台湾では近くテレビドラマにもなるという。

潅漑事業は農業土木の仕事である。 私もこの分野を卒業しその分野で働いた。 なのに、学生時代以来この人物のことを学んだ記憶がない。 初めて知ったのは上記の新聞記事を送って下さった当時89才の故恩師のお陰である。 恩師さえも深くは知らなかった話・・、戦中戦後の台湾の歴史はそれほどに一般の日本人からは分断されていたのだろう。

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