イラン

2006年9月 2日 (土)

ペルシャ語の名刺

購読している日刊紙の 「中日サンデー版」 という別綴じの中に、「世界と日本:大図鑑シリーズ」 という連載記事がある。 もう750回目にもなるが、毎回一つのテーマが広く深くそして分かりやすく編集されているので、日曜日の朝が楽しみだ。 先日は「世界の文字」というテーマであった。

それを読んで、文字の文化圏とはそれぞれの歴史や文化と一体になったものだということがよく分かった。 まずはラテン文字文化圏が広く世界を覆い、それに加えて アラビア文字インド系文字 漢字 キリル文字(ロシアなど) の文化圏があるという。 そして日本のひらがな・カタカナは漢字から派生したものだが、韓国のハングルは漢字から離れようとして為政者によって作られたという。 国ごとのそういう違いを知るだけでも興味があった。

中にもう一つ心引かれる箇所があった。 それは、来る9月8日は 「国際識字デー」 であって、1965年にイランの国王が軍事費の一部を識字教育に回す提案をして、ユネスコによって制定された国際デーの一つなのだということ。 その王の名はムハンマド・レザー・シャー (パーレビ:1919-80)。 イランで最後の国王であり、ホメイニ師を立てたイスラム教シーア派の人々によるイラン革命によって国外に追われた人だ。

彼が自ら 「シャハンシャー(王の中の王)」 と称して権勢を振るっていたころ、私はイランに滞在した(1971-73)。 ヒマラヤ山系の西端にあるタレガン山地から水を引いてガズビン平野を潤すという灌漑事業の工事監理の仕事であった。 施工業者はドイツ企業と現地企業のジョイントであったから、英語・独語やペルシャ語の勉強も出来た。 当時は、意味はさておきペルシャ文字の音読は出来たものだが、今は全く覚えていない。 二人の息子も、あちらでは親よりも上手くしゃべったものだが・・。

Persiancard 右の写真は、当時私が使った手紙用アドレス(上4行) と 名刺代わり(下4行) のスタンプのペルシャ文字である。 その3行目には 「テヘラン○○通り○○番地」 と記載してあるが、それは現在の私共の住民票にも 「従前の住所」 として生きている。 それを見るたびに懐かしく、わが人生の記念碑のような気がしている。

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2006年4月20日 (木)

ミリタリーマップ

今から206年前の昨日、当時 55才の伊能忠敬 (1745-1818) が蝦夷地の測量に出発した。 50歳の時に醸造や水運それに下総国佐原の役職等々から隠居し、江戸に出て測量と天文観測を学んだ後にである。 その意思たるや、そしてその成果(#1)たるや、測量士の端くれである私には尚のこと、彼がとてつもなく偉大なお方に思えるのだ。

それは11代将軍家斉の時代で、黒船の浦賀来航は未だ後 (1853) のことだが、既に 1792年には帝政ロシアのラクスマンが根室に入港し通商を求めていたから、幕府にとって蝦夷地の把握は緊要なことだったに違いない。 のみならず、伊能図の有用性は彼の死後も益々高くなり、幕末には英国艦隊がその小図を持ち帰り、日本陸軍は長くこれを基本の図としたという。 これらは関東大震災で全て焼失したと思われていた。

が、近年になって米国議会図書館や海上保安庁海洋情報部から 写本が発見された という。 そもそも地図とは国土を把握した図のこと。 だから今でも多くの国でこれの通称を 「ミリタリーマップ」 と言うのだ。 農業開発や水資源開発のための技術援助の仕事で海外に行くと、私達が先ずやったのは当該地域の地形図 (殆どの国で5万分の1の国土図のこと) を入手することであった。 行き先は決まって国防関係の役所だった。

しかし現在は、例えば日本では、国土の地図を司るのは軍人ではなく文人 (国土地理院) である。  更に今や地形の情報は、国毎の体制や都合を超えて、地球規模で、しかも無料で提供されている。 思うに、ITの時代とは物凄い時代なのだと思う。

Japan 注; (#1) をクリックすると現れるのは実際の日本の地形と伊能図のそれとを対比したもの。 その範囲を現在の GoogleEarth で見たものが右の写真である。(クリック→)

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2006年4月11日 (火)

私の外国語

私にはちゃんと喋れる外国語は無い。 最近は、「貴方の日本語もなんだかおかしいよ」と妻に言われる始末だ。 でも、現役時代に仕事で出掛けたのは10ヶ国を超えるし、その日数を足すと6年以上になる。 途上国での技術援助が主だったから相手国の人々とはもっぱら片言英語で話し、辞書を片手にレポートを書いた。 レポートは援助元の役所用に日本語でも書いたから、後で、「ここは両者間の意味が違うよ」と、語学の強い役人によく指摘されたものだ。 でもそれだけで、何故か技術の方を論評してくれた役人の記憶は無い。その頃既に日本のテクノクラートは消滅していたのだ。

それはさておき、今思うと惜しいことだが、折角滞在した国々の言葉を身に付けることは出来なかった。 が、業務以外の場での生活用語は否応無く使わねばならない。 それらで今になって思い出せる言葉は殆ど無いが、パーティーの余興用に懸命に覚えたそれぞれの国の歌が一つずつある。 比国の「貴方ゆえに(ダヒルサヨ)」、泰国の「ここに幸あり(#1)」、緬国の「片思い」などなどだが、それらを誰から教わったのかはもう記憶の外だし、歌詞の意味も正しくは覚えていない。

また、1971~73 にはイランのダム現場に家族で滞在したのだが、二人の子供達 (5歳と3歳) の方が ペルシャ語を早く覚えた (#2、mp3 : 650kb : 5分31秒)。 今はもう忘れてしまったのだろうが。

それにしても外国語を直ぐに覚えられる人は凄いと思う。 私の経験からも、自分を含めて日本人は外国語(英語)が確かに苦手だ。 戦後60年、未だにああだこうだと語学教育の手法論議のみが繰り返されているが、そんなの放っといて、若い人たちは習うより慣れろを実践しにさっさと外へ出掛ける時代になった。 「日本」も「日本語」も未だ会得しないままにだ。

今や、外国語=英語 の時代、これに必死に抵抗する 気概ある国 もあるが、私のように、世界中の愛犬家とのメールをやり取りしながら、ネット時代の 便利さ 楽しさ を享受している身から言うと、英語は間違いなく世界共通言語だ。 でも私はやっぱり日本が好きで、死ぬまで日本語の勉強をするつもりだ。

ここで、この記事にコメントを下さったお方のブログの 「英語ペラペラ幻想」 をお薦めしたい。 さすが現場でご苦労なさっているだけあって、すべてお見通しで、実に痛快だ。 更にその続編を読めばもう一枚ウロコが落ちる。 そして更に二枚目のウロコも落ちる。

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(#1) ; タイでは 「ここに幸あり」 は自国の歌だと思っている人がとても多い。

(#2) ; ペルシャ語の1から10までは、イエキ・ドー・セ・チャハール・パンジ・シシ・ハフト・ハシト・ノ・ダであるが、子供らはバンジの次がどうしてもキックになってしまうのだった。

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2006年3月21日 (火)

クルド兵とキャップの水

今から33年前、私はイラク北部の山岳地帯でダムサイトの踏査をした。 あのサッダーム・フセインが国軍司令官になった年である。 踏査の目的はチグリス河の支流に予定されたダム建設計画のコンサルタント業務の見積もりのためであった。 指名された企業8社の内、日本は我々だけで他は東欧諸国やイラクの企業だったし、現地に入ったのも最後のようだったので勝ち目は無かった。 が、イランの現場帰りの私は34歳、元気一杯だった。

その時初めて、所轄の灌漑事務所のあるモスル市の地名が「モスリン」と言う布の語源だと知ったのだが、目的地はそこよりチグリス本流を離れて車で数時間、クルド人自治区の真っ只中であった。 峡谷をはるか下方に望む尾根に立てば、更に上流に展開するザグロスの山々の向こうはイランであった。 そこは素晴らしいダム適地だと思われ、勇んだ私は高低差数百メートルの急な崖を下って谷底まで降りることにした。

上司の日本人2人とイラク人アテンダントを上に残して、私にはクルド人の若い兵士が二人付いてくれた。 谷底近くは更に急な崖になっていて水の流れに近づくことが出来なかったが、踏査の目的は達した。 岩の上で一服しようとザックを探ったら、水筒の蓋が緩んでしまっていて、残っていた水はカメラレンズの蓋に注いで丁度3杯分だけだった。 それを3人で分けたのである。 結局私は、帰りの登りで脱水症状になり、迎えのロバに乗せられることになってしまった。 その時に口に入れてもらった、青いぶどうの実の清冽な味が忘れられない。 二人がロバを引きながら 押しながら、私のために摘んでくれたのだ。

khajilgomel クルド人嫌いのフセインは、あの年から6年後に大統領になり、それから24年後にその政権に対して米英がイラク攻撃を開始した。 それから昨日で3年、戦死した米兵の数2千3百も痛ましいが、イラク人の死者は3万人を越えるという。 生きているのなら共に53歳、あのクルド兵達は今どうしているのだろう?。 衛星写真を見ると、そのダムの現場に機械や人の影が無い。 工事は途中で止まったままのようだ。

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2006年2月 1日 (水)

砂漠に消える大河

miankangi アフガニスタン第2の都市カンダハールを流れるヒルマンド川は西に流れてイラン国境で消える。流れが豊富な年は消えずに広大な湖水となっていた。しかし現在はアフガン国内のダムで止められるので、このヒルマンド湖は長年消えたままだ。かっての洪水期には、この写真中央のザボールの町を中心にして反時計回りに水が溜まって行ったのだ。今見えるのはその干上がった跡で、白いのは塩分だ。その中、Kuh-i-Khaje(クエハジェ)という小山が見えるが、これだけはいつも湖上に頭を出していた。

この写真の視点位置は上空約14.9Kmであり、右端を東京駅の位置だとすれば左端は静岡駅の位置に相当する。シスタン平野の広さとヒルマンド湖の大きさを想像してほしい。

私は1971から1973にかけてイランに赴任し、始めの3ヶ月はこのザボールに宿泊して、灌漑事業のための測量とレイアウトをした。当時のイラン政府(脱イスラム的王政)は欧米や日本のコンサルタントを雇って、このシスタン・バルチスタンの地の遠い昔の緑を取り戻すという大事業に取り組んだのである。中央やや下に貯水池群が見えるのはその成果(チャヒニメ湖)であるが、4つに見えるのは水が十分でないために浅くなってしまったからであろう。現在それらが周辺を潤しているような気配は残念ながら無い。

当時私たちが計画した水路は導水・排水合わせて約650Kmだが、この衛星写真を拡大してみると、それらが干上がった痕跡らしき幾つかの線が見える。驚いたことに私の記憶の範囲よりもっと広く線の痕跡が見える。太古の昔から100年ほど前迄はそれほどに緑の沃野であったのだ。

あのハードボイルド作家の生島治郎が描くように、灼熱の砂漠の午後は猛烈な風が吹き、遠大な歴史までも吹き飛ばす。 ここが、かってはとても豊かな水と緑の大平原だったこと、シルクロードの西域南道終着点だったこと・・、あのチムールが戦い敗れたところ・・、それを知っているのはその孤高な岩山、クエハジェ、もうおまえだけかも・・・。 

そんな不毛の地を東から西へ多くのアフガン難民が歩いたのはつい最近のことである。

( 生島治郎著「汗血流るる果てに」 のクライマックスで主人公の筧を助けたエンジニア松尾は、私共の数年後にその灌漑事業の工事監理をした後輩がモデルになっている。もちろん、筧という人物は実在しない。)

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