老犬・高齢犬

2007年10月13日 (土)

和魂洋才 (秋田犬とボーダーコリー)

表題の4文字は、日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の才能を受け入れ、両者を調和させ発展させて行こうという意味である。 それは、西洋に習うことのみに熱心だった明治時代の風潮のアンチテーゼでもある。 ただ、IT時代の今、そのような切り口で事を論じるには、世界の精神構造も情報・知識も混然とし過ぎている。 地球が一つであるように人類も一つなのだ!。 ・・などと日頃想おうとしていたおじんに、ニュアンスはやや異なるが、ふとこの言葉を思い起こさせたものがある。 先週から我が家の一員になった仔犬のことである。

Taro950102 Hana070715 その犬種はボーダーコリーで、私共夫婦は、5年前に亡くしてしまった秋田犬(写真左)との性質の違いに驚いている訳だ。 その違いは、唯の固体差では決してなく、当時はまさに 「和犬」 に 「和魂」 を見ていたのだなと思う程に、今度は 「洋犬」 に 「洋才」 を見る思いがするのだ。 頑固で時に静寂を好む風な和犬に対して、洋犬は四六時中人間と共に居ることを喜ぶのだろうか、そして根っからの働き者だと言うことが仔犬なのに良く分かる。 実は一昨年、同種の、長男夫婦の愛犬(写真右上)が私共一家と山道を散歩していた時に、バラケて歩く人間達を固めようとして休まず走り回る様を見て驚き感心したものだ。 この犬種には生まれながらに牧羊犬の血が流れているらしい。

想うにそれは、西洋には 「賢くて働き者」 の犬を作出する歴史があって、一方日本では 「孤高・忠実・排他」 な犬への希求があったのであろうか・・。 ともあれ、このような違いを超えて、昔の 「タロ」 も今度の 「小太郎」 も私どもの愛犬である。 「犬」、それは人類のための天与の友。 義務でも無いのに、主人の前で伏せが出来る唯一の生きもの。 罪も無いのに、主人のののしりを聞いてくれる唯一の生きもの。 すべての犬はその飼い主を無条件に愛しそれに従う。 それは、まるで確信犯のようにいつも我が家の庭を汚していく隣の黒猫とは天と地ほどの違いがある。 小太郎よ、キャツを追いはらうべし!

ただ残念なことに、盆・正月での散歩の度に私共を感嘆させた 「はなちゃん」 はこの7月に早世してしまった。 まさしくわが仔を失ってしまったに等しい長男夫婦の悲嘆はさぞかしと思うと、かける言葉も無かった。 その後の寂しさに耐えかねたのであろう、彼らはやがて再び同種の犬を求めた。 その犬舎に同行した私共も、ボーダーコリーの虜になってしまった。 長男らが確保して 「優花」 と名付けた仔は未だ幼くて持ち帰りが出来なかったのだが、我が家にはその異母兄に当たる仔を連れて来たのだ。 連日携帯で名古屋から送られる 「小太郎」 の写真にヤキモキしながら、長男夫婦はいよいよ明日、千歳空港でわが仔に再開出来る。 思いはただ一つ、「いつまでも健やかに・・・」。

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2006年9月28日 (木)

続 ロマンチック街道へ (ITと共に)

ドイツの古き街道を見物しに行くのにノートパソコンを携えてなんて、およそロマンチックではない。 が、私には幾つかの楽しみがある。 それは、これを機会にグローバルな場で色々な IT を自ら体験することだ。 その第一は、あちらの宿で無線 LAN を使うこと。 その事は前記事に書いたが、後で調べたら、往復の機内でもそれが使えることが分かった。ただしこの "Connexion by Boeing" というサービスは採算が合わないのか今年限りで廃止になるようだ。 長時間のフライト中にインターネットに繋がるという便宜を喜ぶ人は多い筈だから、何時かまた同様のサービスが出現することだろう。

Rothenburgmarkt 次の楽しみは、現地時間の 10月3日13:00 (日本時間=同日20:00 ) に ローテンブルグ市庁舎の外壁の東南隅に二人で立つことである。 そこはマルクト広場の一角で、常設のウェブカメラが見下ろしていて、定点画像を 2分 おきに発信しているからだ。 日本で留守番の嫁たちはこれを見て安心してくれる!という筈だが・・?。

3番目は、スカイプでのテレビ電話の交信である。 これは既に、米国 ヒューストン に居る知人との間で経験済みのことだが、今度は片方が無線 LAN 下のノートパソコンだから実際の交信が上手く行くのかどうか。 目下、自宅と次男宅とで予行演習中であるが、近すぎるのでなんだか実感が湧かない。

そして、今までは数日の留守をする場合は、私が公開している 「老犬がんばれ台帳」 の更新がストップしていたのだが、今回の旅ではこれの管理も継続してやれそうだ。 だから、該当するワン君にはちゃんとその日に誕生日のお祝いメールが届くことになる(筈だ)。

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2006年7月14日 (金)

おとしぶみ

Otoshibumi 拙荘の近くで、生まれて初めて 「おとしぶみ」 を拾った。 むやみに生き物の卵を拾うことはいけないと思っているのだが、これだけは少しぐらいの移動はOKのようだ。 そしてなるほど、上を見ると、クヌギの木の葉が広がっていた。 その名前は前から聞いていたが、実物を見るとその可愛らしくてそしてしっかりとした巻き方に感心してしまう。 そして、いい名前を付けたものだと、先人の風流にも感心してしまう。

ネットで検索すると、平野部では6月ころから見付かっているらしいが、標高1,000m の荘川ではそれより一ヶ月ほど遅れての出現のようだ。 この辺りではこの頃、面白い動植物を見ることが出来る。 早朝と夕方に、とても愉快に聞こえるキビタキの鳴き声が始まるとつい口笛で応答したくなる。 また、いつもの散歩道のある特定の場所だけに咲く白いアザミも、まるで大事な宝物のような存在だ。

山に来ては山の動植物のことを少しずつ知って行くことは私どものささやかな楽しみである。 ただし初めからそういう気分だった訳ではない。 以前はいつも愛犬にせがまれて、長時間の散歩をしたものだが、そのついでに発見した喜びなのである。 そこで何かを見付けて調べ物をする時の参考書は、ずーっと昔に子供たちが使った小学生用の科学図鑑であるが、これが見やすくていい。

そして、その結果をネットの検索にかければ、今や色々な面白い情報が洪水のようにヒットして来る。 「おとしぶみ」 一つにについても、RSSリーダー から並び出てきたブログの数々を読むと、自然人文 と、実に様々な情報と思いとを知らされ、そしてそれらが混交して、世の中の広さ・深さを実感してしまうのだ。

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2006年5月 7日 (日)

ペットフード今昔

近くのホームセンターに出掛けてまた感じたことがある。 おじんの好きな DIY関係 の売り場が狭苦しくなっているのだ。 その分ペット関連商品の売り場が膨らんだ感じだ。 例えば、ペットフードの売り場は一昔前のように左右の棚を見て一列だけを歩けば目的の物が見付かったのに今はそうは行かない。 犬か猫かそれとも、歳は幾つか、如何なる犬種か、太りすぎか痩せすぎか・・・、そのバラエティーたるやスーパーの主食品棚よりも賑やかである。

それらの並びは多分、客が選ぶのに便利なようにではなくて、売る側のしたたかな戦略で決まっているのであろう。 そして商品の説明文も変わってきた。昔は、「栄養がいっぱい」 がウリだったのに、今は 「ダイエット」 が主流で人間世界の動きと一緒だ。 そして、やたらカタカナ用語が多い。 サプリメント・ナチュラル・ロハス・スローフード・・・、 もう 「ペットフード」 なんて言ってられない。 なにせ「コンパニオン」 様の食餌なのだ。

ところで、「スローフード」 とか 「ロハスな食餌」 とかの宣伝文句に簡単に引かれてしまう飼い主さんたちは、これらの言葉の意味を、特に「裏の意味」を正しく認識しているのだろうか?。 個人的な見解だが、これらの言葉が宣伝文句に使われた時、それらの商品はもはや決して 「スロー」 でもなく、「ロハス」でもなく、むしろその正反対の「商品」になっていることに気付くべきである。 これらのコンセプトは元は生活者の思想であったのに、今は「商」ビジネスの戦略用語になってしまっているようだ。

実はわが愛犬も、色々な商品のお世話になった。 彼らの晩年には 「シニア向け」 の商品をあちこちの店で漁ったものだ。 しかし結局、彼らが美味しそうに食べてくれて、それなりの 「余生」 を過ごせたのは、商品としてのペットフードではなく、我が家のレシピによる 「わんちゃんごはん」 のお陰だったと信じている。 それも実は、私たち人間の 「残飯」 の延長上で案出されたものだ。

現在は、人間の食餌さえ出来合い品ばかりになってるのだから、もはやそこから 「残飯」 など生まれる余地は無いのだろう。この用語自体が人間のおごりだと叱られるかもしれない。 が、これこそ我が愛する仔たちとの毎日の 絆 であったような気がしている。 歩くこともままならず、食欲も萎えてしまった愛犬を見ながら、彼の好きな肉の匂いだけを残して脂肪分を抜き、嫌いな野菜を混ぜ込む方法を考えた頃がとても懐かしい。 そう言えば人間の食餌だって、 家族みんなで「同じ釜の飯」 を喰った時代は遠くなった・・。

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2006年4月 9日 (日)

「どうしてなの・・?」

Howcould_1 これはアメリカの動物救護活動家 Jim Willis 氏が2001年に著した "How Could You?" という題名の Essay を、2002年に私が翻訳したものの邦題である。 著者のサイトではこれをエッセイとしているが世界の愛犬家には偉大なポエムとして知れ渡っている。 飼い主との幸せな生活だったのに、やがて味わう淋しさと、予期せぬ安楽死に至るまでの思いをその犬自身が語るもので、愛犬家ならずとも、大きな感動と悲涙を与えられるものだ。

私はこれを、欧米の秋田犬関係のMLで知った。 ある人物が引越しのために犬を引き取ってほしいという投稿をし、それへの返事として、救護活動家の Randall Long 氏によって引用投稿されたものだった。 私は直ぐに日本語に訳して、原著者への連絡を依頼したのだが、RL氏は 「気にせずに日本の皆さんに早く読んでもらえ」 と我がサイトへの掲載を勧めてくれた。 後で著者のサイトをよく読むと、かく不幸な動物達がこの世から少しでも減るために、原著作権を明示する限り、どしどし転載してほしいとあった。

初めから原著者が(英文の)転載を許しているのに、私は途中から自分の日本語訳を (他のサイトに) 転載することをお断りしている。 それは、愛犬家のホームページにはそれぞれに情緒的な特色があって、拙サイトの 「どうしてなの・・?」 を (テキストベースで) 転載すると、例えば改行や段落などを変えずに記載することにはかなり無理があって、結果的に私の訳文の雰囲気が正しく伝わってはいない事例が多くあったからである。

私の翻訳そのものもかなり情緒的であるが、それは当時私自身がペットロスに陥っていたからという事もあろうが、故愛犬のサイトを運営して多くの皆さんとやり取りしている内に、もっと広く深く 「生きとし生けるものたちへの思い」 が私の中に育っていたからだと思う。

現在、このポエムを独自に訳しておられるお方のサイトが増えてきたように見受けられる(例1例2例3)。 書物も出たようだ。 それらを読んでは、自分の訳文が恥ずかしくなるのだが、もう消すことは出来ない。 このページをリンクして下さっているお方は (連絡を頂いた分だけで) 250サイトを超えていて、お陰で毎日100人以上の訪問者がおられるからである。

注) ; うっかり転載をしてしまっておられるサイトも少しだがある(例4)。 当方に連絡をしてこられた場合には丁寧にお断りをしてリンクの方に替えていただいている。 が、無断転載や確信犯的転載には困惑するばかりだ。 でも、いつかそれも正されるであろうと期待して、(そこのオリジナル訳だとしているような目に余るもの以外は)あえて当方から連絡を入れることは滞り勝ちである。

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2006年4月 2日 (日)

「エンジェルの願い」

これは "Pet Shop Puppy" という英語の愛犬ポエム (1999) を私が訳した (2002) ものの邦題である。 原著者の Jackie D. Ellis 女史は米国のサウスカロライナ州でロットワイラー犬を中心とした動物救護とセラピー犬活動をしておられる。 初めにこの原著をネット上で読んだ時、私はとても衝撃を受け、そして深い感動をした。 そして、早く日本の愛犬家にも読んでほしくて、辞書を片手に、懸命に翻訳をして、ある愛犬家のMLに投稿をした。

初めはあまり反響が無かったのだが、そこはある特定の犬種のMLなので、話にやや違和感があったのだろうと思う。 その後、我が故愛犬のサイトに載せた直後から、これを読んだ方々からの反響が段々と増えて来た。 そして現在は、とても多くのサイトでこのポエムへのリンクをして頂いている。 拙サイトでは (2003年4月以降に) ページ毎での訪問客の計数をしているのだが、今日現在このポエムは 64,000 余りのカウントになっている。

Angelbnr_1 その内容は、無秩序な繁殖のゆえに遺伝的な疾患を背負ってしまった仔犬が、優しい家族に見守られながら、安楽死させられるまでの話で、それを当の仔犬が語るものだ。 現代のペット事情を、日ごろ憂えている人にはとてもよく分かるメッセージなのだと思う。 ただ最近は、ペット事情が改善して来たのであろう、このような悲劇を知らせるメールが無くなったので実に嬉しい。 右上のバナーはこれを読んだお方が心を込めて作って下さったものだ。

原著者は、私が彼女のアドレスを探すのに2年間も掛かったことを知って、私の和訳の事後承諾に快く応じてくれたと同時に、もう一つ、彼女の老愛犬のポエムと写真を贈って下さった。 こちらはそんなに悲劇的なものでは無く、実にほのぼのとした内容だ。

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2006年3月19日 (日)

老犬がんばれ

AGEDOGBN 弱りきっている相手に向かって 「頑張れ!」 などと言うのは良くないというが、以前私共は毎日々々これを言ってきた。 ヨロヨロになってしまった頃の我が家の老犬に向かってである。 その犬ももう数年前に逝ってしまった。 犬などの動物が大好きな二人だが、以来何も飼っていないし、もう飼えない。 今度は自分たちが十分に老いたからである。

実は、その愛犬が遺していってくれたものがある。 拙サイトの「老犬がんばれ台帳」である。 これは世界中の10歳を超えたワン君のデータベースである。 我が家の犬は2代とも秋田犬としてはとても長寿だったので、犬の寿命について調べたのだが、いい答えが見つからなくて、それでは公開調査をしようと2000年の夏に自分でコツコツと作ったものである。

そして今日現在で、23カ国から、105種類、1,118頭のワン君が台帳に来てくれている。 台帳への記載はあくまで飼い主さんの申告に基づくもので、お誘いはすれども、こちらからデータを収集することはない。 データと一緒に頂く飼い主さんのお便りには、老けていく愛犬への切々たる思いが綴られていて、いつも返事に窮してしまう程だ。

サイトでは、ワン君たちが生年月日順に並んで現れるが、元台帳では色々な切り口のグループ別に整列するようにプログラムが組んである。 使っている表計算ソフトの能力は凄いもので、千頭を超えた今でも並び直すのは瞬時だ。 だから、登録犬が存命中は、その誕生日にお祝いメールを送ることも出来るし、亡くなれば、その最初の命日に、当のワン君が「虹の橋」から留守宅にメールを出してくれる訳だ。

巧く組めばこれらを全自動でやれる筈だが、そうはせずに、その都度心からのメッセージを加えるのが私の楽しみなのだ。

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2006年3月 2日 (木)

花遍路

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3月になると、いつも思い出す風景がある。 土佐の遍路道である。それは平成13年(2001)、私ども夫婦のセンチメンタルジャーニー = 「タロの花遍路」 であった。 長年慈み、暮れに逝ってしまった愛犬の面影を尋ねて歩いた訳だ。 たかが犬一匹、されど我が仔・・、実の息子たちにもまして、心通わせた三男坊だったからだ。

14歳と10ヶ月、秋田犬としてはとても長寿だったのだが、でもあの夜、彼が逝ってしまったのは私どもの不注意からだと思っている。 あれからもう何年もたった。 が今も、我が老骨に「老犬がんばれ台帳」を運営するエネルギーが残っているのはその償いの思いからだ。

再びその日、私どもは彼が会いにきてくれたような気がする。 そこは、白ばなタンポポがいっぱい咲く29番国分寺の前のたんぼ道だった。 しかし、なんとも寂しくやるせない再会だった。

四国遍路の中で土佐路のことを「修行の道場」とも言う。 黙々と歩いていたら、寺々で読む般若心経の一節の意味が自分なりに分かったような気がしてきた。 ・・・色即是空、空即是色・・・

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2006年1月30日 (月)

リンクと転載

最近は、「当方へのリンクはトップページのみにして下さい」という趣旨のサイト(ホームページ)がかなり少なくなった(HPの黎明期は殆どがそれだった)。 このようにブログが隆盛した現在では当然のことであろう。 なにしろ、ブログサービスで 「ディープリンク(ダイレクトリンクとも言い、トップ以外のページやファイルにリンクすること) はやるな」 としている手引き書を見た記憶が無い。 私は、こんな時代になるのを予想していた訳ではないが、自分のサイトでは当初から「全面的にリンクフリー」として来た。

その理由の一つは、拙訳の愛犬物語やポエムを直接開いてもらって出来るだけ沢山の人に読んでもらいたかったからだ。 それらのページでは、「リンクはご自由に、ただし転載は不可」としてある。 お蔭様で、毎日数百の愛犬家のサイトを経由して、私が心を込めて翻訳したお話を読みにきてもらっている訳だ。

ところで、「転載不可」 の理由についてであるが、実は最初はこれを「可」としていた。 暫くしてその結果にとても驚いた。 心を込めて訳文を推敲したものが、時には親切にも漢字カナ変換してあったり、微妙な段落の位置が変えてあったり、バックグラウンドのMIDI音楽が消えていたりと、どれも散々なページになっていたのだ。 転載すれば結局そのサイトのモノになってしまうこと、考えれば当然のことだった。

翻訳者の心をも含めて物語やポエムをそのまま伝えること、それにはリンクをお願いするしかないとなった訳だ。 拙訳のお話は沢山あるので、その内どれがよく読まれているのだろうか興味がある。 その為の分析に、私のささやかなCGIプログラムが役に立っている。

現在最も多くの方々に読まれているのは「どうしてなの・・?」である。

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2006年1月29日 (日)

虹の橋から

これは既に亡くなった愛犬から、その誕日に、飼い主さん宛に届けられるメールのタイトルである。拙「老犬がんばれ台帳」の登録犬は彼らの一周忌にみなこれを書く。「虹の橋」とは全ての動物たちが渡って逝くところ、天国の入り口のことだ。「三途の川」と言うよりははるかに感じがいい。

この言葉は、古くは北欧神話に登場しているようだが、動物を愛する人々の間に広まったのは作者不詳の英文詩によるもので、アメリカインディアンの伝承に基づいていると言われる。命名の趣旨は違うだろうが、ナイアガラ滝の下流にはこの名前が付いた橋もある。

「天国の、ほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。この地上にいる誰かと愛しあっていた動物は、死ぬとそこへ行くのです。」で始まるそれは、愛する動物を亡くした人にとってとても救いになる詩であり、今や世界中の言語で紹介されているし、これから派生した詩も多い。日本語訳も多いが私が時々読みに行くのはいっけさんのところだ。

hwirainbow 2001年に同伴でのクラス会でホノルル沖のディナークルーズを楽しんでいた時、突然舞台の演奏が「虹の彼方に」に変わった。妻と甲板に出ると、虹が出ていた。亡きタロが旅の無事を祈ってくれている・・二人は無言のまま・・思いは同じだった。

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