フィリピン

2006年4月20日 (木)

ミリタリーマップ

今から206年前の昨日、当時 55才の伊能忠敬 (1745-1818) が蝦夷地の測量に出発した。 50歳の時に醸造や水運それに下総国佐原の役職等々から隠居し、江戸に出て測量と天文観測を学んだ後にである。 その意思たるや、そしてその成果(#1)たるや、測量士の端くれである私には尚のこと、彼がとてつもなく偉大なお方に思えるのだ。

それは11代将軍家斉の時代で、黒船の浦賀来航は未だ後 (1853) のことだが、既に 1792年には帝政ロシアのラクスマンが根室に入港し通商を求めていたから、幕府にとって蝦夷地の把握は緊要なことだったに違いない。 のみならず、伊能図の有用性は彼の死後も益々高くなり、幕末には英国艦隊がその小図を持ち帰り、日本陸軍は長くこれを基本の図としたという。 これらは関東大震災で全て焼失したと思われていた。

が、近年になって米国議会図書館や海上保安庁海洋情報部から 写本が発見された という。 そもそも地図とは国土を把握した図のこと。 だから今でも多くの国でこれの通称を 「ミリタリーマップ」 と言うのだ。 農業開発や水資源開発のための技術援助の仕事で海外に行くと、私達が先ずやったのは当該地域の地形図 (殆どの国で5万分の1の国土図のこと) を入手することであった。 行き先は決まって国防関係の役所だった。

しかし現在は、例えば日本では、国土の地図を司るのは軍人ではなく文人 (国土地理院) である。  更に今や地形の情報は、国毎の体制や都合を超えて、地球規模で、しかも無料で提供されている。 思うに、ITの時代とは物凄い時代なのだと思う。

Japan 注; (#1) をクリックすると現れるのは実際の日本の地形と伊能図のそれとを対比したもの。 その範囲を現在の GoogleEarth で見たものが右の写真である。(クリック→)

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2006年4月16日 (日)

私の信教

昔、フィリピンに滞在した時、よく 「貴方の宗教は何ですか?」 と聞かれた。 どのプロジェクトの時でもその時のカウンターパート(相手国の担当者)氏は親しくなると必ず聞いてきたものだ。 その種の答えを準備してない者には困る質問だったが、相手は真面目で、これを知ってこそ彼らのホスピタリティーは益々質を上げるのだ。 不真面目に答えようものなら、こちらの人物の底が知れてしまいそうな訳だ。 ただ、他の国ではそういう質問を受けた記憶がない。

私は(他の団員と同じように)、「生まれたのは仏教徒の家ですが、私自身は今は殆ど無宗教です」 と答えたものだ。 すると相手は決まってきょとんとした顔をした。 「無宗教」 と言う状態は考えられないと言う顔であったが、当時の日本人としてはちゃんと正確に答えたつもりだ。 が、今思うと、彼らクリスチャンにとって、それはとても恥ずかしい答えで、多分それは、未開人以前の状態だと言ったのと等しかったようだ。

その資格の有無はともかく、今では、「私は仏教徒です。宗派は決まってません(が、浄土系です)」 と言いたい (括弧にしたのは英語でどう言うのか分からないから)。 今までにイスラムの国にもクリスチャンの国にも度々滞在したが、やはり釈迦如来によって始まり、龍樹菩薩によって纏められた 「大乗」 の教えほど「広ーい」ものは無いと思う。 それによれば、私たちは、何も (良いことを) しなくても、 悪人でさえも救ってもらえるからだ。 そこに流れるのは、何よりも「愛」と「慈悲」とであり、他人の文化(信教も)をも何時でも尊重すると言う度量も含まれているからだ。

現在でも世界のあちこちで宗教が絡んだ争いが絶えない。 私にも、敬愛するクリスチャン氏(比国の人ではない)を招いて日本を案内したとき、神道や仏教の施設の見学の場で彼らの排他の理念を露にしたのを見て、とてもショックを受けたことがある。 でも、「大乗」の教えを知ってからの私は、とても気持ちが楽になり、その後の人生観にゆとりと喜びを加えてもらった気がしている。

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2006年4月11日 (火)

私の外国語

私にはちゃんと喋れる外国語は無い。 最近は、「貴方の日本語もなんだかおかしいよ」と妻に言われる始末だ。 でも、現役時代に仕事で出掛けたのは10ヶ国を超えるし、その日数を足すと6年以上になる。 途上国での技術援助が主だったから相手国の人々とはもっぱら片言英語で話し、辞書を片手にレポートを書いた。 レポートは援助元の役所用に日本語でも書いたから、後で、「ここは両者間の意味が違うよ」と、語学の強い役人によく指摘されたものだ。 でもそれだけで、何故か技術の方を論評してくれた役人の記憶は無い。その頃既に日本のテクノクラートは消滅していたのだ。

それはさておき、今思うと惜しいことだが、折角滞在した国々の言葉を身に付けることは出来なかった。 が、業務以外の場での生活用語は否応無く使わねばならない。 それらで今になって思い出せる言葉は殆ど無いが、パーティーの余興用に懸命に覚えたそれぞれの国の歌が一つずつある。 比国の「貴方ゆえに(ダヒルサヨ)」、泰国の「ここに幸あり(#1)」、緬国の「片思い」などなどだが、それらを誰から教わったのかはもう記憶の外だし、歌詞の意味も正しくは覚えていない。

また、1971~73 にはイランのダム現場に家族で滞在したのだが、二人の子供達 (5歳と3歳) の方が ペルシャ語を早く覚えた (#2、mp3 : 650kb : 5分31秒)。 今はもう忘れてしまったのだろうが。

それにしても外国語を直ぐに覚えられる人は凄いと思う。 私の経験からも、自分を含めて日本人は外国語(英語)が確かに苦手だ。 戦後60年、未だにああだこうだと語学教育の手法論議のみが繰り返されているが、そんなの放っといて、若い人たちは習うより慣れろを実践しにさっさと外へ出掛ける時代になった。 「日本」も「日本語」も未だ会得しないままにだ。

今や、外国語=英語 の時代、これに必死に抵抗する 気概ある国 もあるが、私のように、世界中の愛犬家とのメールをやり取りしながら、ネット時代の 便利さ 楽しさ を享受している身から言うと、英語は間違いなく世界共通言語だ。 でも私はやっぱり日本が好きで、死ぬまで日本語の勉強をするつもりだ。

ここで、この記事にコメントを下さったお方のブログの 「英語ペラペラ幻想」 をお薦めしたい。 さすが現場でご苦労なさっているだけあって、すべてお見通しで、実に痛快だ。 更にその続編を読めばもう一枚ウロコが落ちる。 そして更に二枚目のウロコも落ちる。

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(#1) ; タイでは 「ここに幸あり」 は自国の歌だと思っている人がとても多い。

(#2) ; ペルシャ語の1から10までは、イエキ・ドー・セ・チャハール・パンジ・シシ・ハフト・ハシト・ノ・ダであるが、子供らはバンジの次がどうしてもキックになってしまうのだった。

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2006年2月26日 (日)

マルコスの遺体

今朝の新聞に、アロヨ大統領の退陣を求めるフィリピンの首都マニラの市民の写真と、あのマルコス元大統領の遺体の写真とが載っていた。 20年間の独裁政治で巨大な蓄財をした彼が民衆に追われるように国を脱出してから更に20年も経っていて、しかも彼がハワイで死亡したのは脱出後数年のことだった筈だが。 ・・なんと、彼は生まれ故郷のイロコスノルテ州バタックでガラスケースの中に横たわっているのだという。 (バタックは州都ラオアグに近い小さな町である)

その理由は、国民英雄墓地への埋葬を希望するマルコス家に対して比国政府がOKを出さないからである。 スイスの銀行に預託した蓄財が、はっきりした分だけでも400億円相当で、さらにその数十倍も何処かに隠されているらしいという、そのような人物(の遺体)が未だにこの地上に残っているのは何故だろうか。 レイテ島の地滑り被災地をハイヒールで訪れた、あのイメルダ夫人のシタタカサのゆえのみなどとはとても思えないのだが。

ilocosnorte マ家を支援して「マルコスは英雄であった」 と署名をしたのは約百万人だという。 この数字を見て、彼がまさに独裁者であった頃の彼の地を思い出す。 私は、1978年と1980年とで述べ4ヶ月、イロコスノルテ総合灌漑計画のダム担当としてJICAによる技術協力に参画した。 右の写真の中で、上部の5本の川が集まって流下する地域がイロコスノルテ州の田園地帯で、計画は、そこの水不足を補うべく山脈の反対側のティネグ川にパルシグアンダムを造って長大なトンネルで導水しようとするものであった。

そのダムサイト踏査に入るべく、該地のアブラ州都バンゲットに知事を表敬した時である。 「アブラはたったの20万人、だがイロカノ100万人のために我がティネグの水をやる訳にはいかない!」 と、巨体で酋長のような風貌の反マルコス的な知事に一喝されたことを思い出す。 飛ぶ鳥を落とす勢いの大統領の威光も、山中の民衆には通じていないのだなあと感じたものだ。 彼の国の自由度は凄いと思う。 ピープルズパワーもあれば、お腹が脹らんだ小さな独裁者もいっぱい居る。

写真で見る通り、あのダム事業は実現していない。 それで良かったような、寂しいような気持ちである。

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2006年1月27日 (金)

南国のチョコレート

capayas 昨日の記事にある「フィリピンでの技術移転」の成果として比国灌漑庁の若い技術者たちに安定計算をやらせたダム第1号はボホール島にある。はたして現在うまく湛水しているだろうかと、GoogleEarth を起動してみたら、見事に雲間から現われたのでとても感動した。右の写真をクリックするとその衛星写真が現われる。

このダムは国道の端に作られた農業用の溜め池であるが、近くの町の貴重な生活用水になっている筈だ。筈だと言うのは、この施設は日本の無償援助で出来たものなので、本来の目的外に使うのは不都合だと言われそうだからだ。近くの町とは港町ウバイのことで、写真上部に見える。この地名は、ボホール島の特産品であるウベ芋(有名なアイスクリームの原料。紫芋の仲間か?)の語源という人がいるが真偽は知らない。

ちなみに、今「ボホール」を検索すると各種のサイトがヒットする。日本人のもあるが、多くは海辺のリゾートの話が多い。が、世界でボホールにしか無いものを二つ挙げておかねばならない。それは、あの可愛いメガネザル不思議な小山群のチョコレートヒル(ズ)である。

技術援助の仕事で滞在した時(1985)、私達コンサルタントチームの宿は一つのチョコレートヒルの頂上にある簡素なロッジであった。周りの山々は、乾期には草が枯れてチョコレート色になると言われ期待していたが、その年は雨が多かったせいなのか、あの緑の豊かなオッパイ群が変色したのは焼畑耕作からの延焼のおかげで、色はかなり苦いチョコレートのそれであった。以来、島の農業技術も向上した筈だから、焼畑はもう見られないだろう。

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2006年1月26日 (木)

フィリピンでの技術移転

私の海外勤務の回数はフィリピンが一番多い。記録を見ると、1978年のイロコスノルテから1993年のボホールまで延べ11回、年齢で言えば39歳から54歳までであった。一般に海外では日本人は実際の歳よりかなり若く見えるらしい。だから、比国灌漑庁の若い技術者諸君とはいつも仲良しになれた。他の発展途上国の時とは違う「心からの仲良し」になれたのである。それは比国民特有のホスピタリティーのお陰かも知れない。

私の実際の年齢を知り、細かい図面や文字を書くことが難儀だと知ると、カウンターパート(相手国の担当技術者)の誰もが進んで私の手足になってくれた。早くから書痙の症状があった私には本当に嬉しい環境であった。だから、彼らに役立つような技術移転をして感謝の気持ちを遺したくなった。

それが、比国でこれから増えるであろう土堰堤用のダム安定計算プログラムである。これは、パソコン時代以前のポケットコンピュータにBASIC言語で私自身がプログラムしたもので、大きさや築堤材の種類を問わないフィルダム汎用式だった。彼らは私が一年余も掛けて作ったそのロジックを数日で解読して、巨大な紙面にチャート(流れ図)として描いた。

こうなればしめたもので、難なくこれを、当時灌漑庁の特別室にあったタンディのTRS-80に移し変えた。その出来は、データの入力も結果の出力も(彼らのセンスが発揮された)スマートな体裁で、のろくて貧相な出力の我がポケット機の比ではなく、越された私は、なのに嬉しくてならなかった。

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