衛星写真

2007年8月 3日 (金)

伊豆の土木遺産

久しぶりに伊豆を訪れた。 前回ははるか36年前で、愛車ファミリアクーペの後部座席を板+マット敷きに加工し、未だ幼児だった二人の息子と義母とが横になれるようにして、開通2年目の東名高速を走ったことになる。 この偉大なインフラストラクチャーを利用するのに、当時は 名古屋IC から 沼津IC まで 1,450円、現在は 5,100円 だが、例の痛快な ETC の告知音に酔わされて値段の方はよく聞こえなかった。

さて、土木屋にとって伊豆は見るべき施設の多いところだ。 今回初めて訪れた 「韮山の反射炉」 をはじめ、どれも偉大である。 現に働いている施設を 「遺産」 と言うのはおかしいかも知れないが、伊豆にはそういうのも多い。 今回は関わらなかったが規模で言えば、ともに並行して伊豆の函南町の下を走る JR東海道線の 丹那トンネル(7,804m) と新幹線の 新丹那トンネル(7,959m) が先ず挙げられよう。 が、なにせ地中の施設であるからか、今 地図を広げても観光向けのポイントは何も見つからない。 「函南町大字上沢字新幹線」 という珍しい地名が目を引くのだが、町の公式サイトにもその案内は無い。 ただ、反対側(東口)にある 丹那神社 のサイトが興味深い。

そして今回は念願の 「天城山隋道」(1904) を訪れた。 これは道路トンネルで、上記よりぐんと小さいのだが、石造りとしては国内で最も長く (445.5m)、道路トンネルとして初めて国の重要文化財に 指定(2001) されている。 暗くひんやりとした中を車でそろりそろりと通過したのだが、開通以来100余年、明治の工人たちによる 「切り石巻き工法」 の 馬蹄形断面の中の、堅固な壁面を見ながら歩いて行き来した、往時の旅人のさまざまを想った。

Kanogawafloodway もう一つ(←クリック)、伊豆には巨大な 「水のトンネル」 がある。 この 「狩野川放水路」 は土地の人々にはもちろん知られている筈だが、観光案内にはあまり登場していなので、道を何度も間違えてしまった。 この 中伊豆地域 を北向きに流れる 狩野川 の下流部分は曲がりくねっていて、洪水が起きやすく、このためにその 17km 分をたった 3km の放水路(トンネル部分もある)で山を抜いて、駿河湾へ向けて ショートカット した(1965)ものだ。 洪水時には最大毎秒 2,000トン の濁流がこの人工水路を走るという。 公式サイトではそのライブ動画を見ることも出来るようだが、幸か不幸か普段は水の流れが無いので当日は見られなかった。

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2007年1月20日 (土)

ビスタ遠望

今月末にパソコン用OS(基本ソフト)の Windows Vista が発売されるらしい。 新しいものが大好きな人には、約5年ぶりのワクワクするイベントになるのだろう。 家電店の広告を読むと、まるでもう Windows XP はオシマイだと言っているようにも見える。 でもそれは、これからパソコンを新調しようとする人にとっては正解と言えるかも知れないが、おじんのように Windows 以前の BASIC(正確にはOSではないが) の時代からのユーザー(1980~)としては今 トキメクものは何も無い。 むしろ、過去にあったように、新OS のために 旧OS へのサポートがないがしろにされるのではという心配の方が先にたつ。

既に現役を引退していても、私の場合、パソコンは生活の必需品である。 世界中の愛犬家とメール(例1例2)をやり取りしたり、庭の花のデジカメ写真を楽しんだり(例1例2)、手紙や賀状を作ったり、ささやかにホームページを運営したり(例1例2例3例4)・・・と、様々な生き甲斐を与えてくれている。 さらに、日常の諸料金税金の支払いも、好きな旅行のための事前調査も手配もこれでやれる(例1例2)。 昔懐かしいプロジェクト現場の今の姿(衛星画像)もこれで見ることが出来る(例1例2例3例4例5例6)。 確かに、これらの便宜の多くは、Windows 98 から XP に替わってから更に快適に使えるようになったものだ。 それでは、今回の XP から Vista への変更で新しく登場する便宜とはどんなものなのか?。

華やかな ユーザーインターフェース だとか、強化された検索機能だとか、喧伝されているそれらの新機能の中に おじんが ビビッと感じるものは何も無い。 それは、私がまさしく「おじん」だからと言えばそうかも知れない。 それでいいのだ。 私の場合の新OS とは、旧OS を棄ててまで買うものではなく、愛用のパソコンがスリ切れて動かなくなった時にやむなく購入する新機に付いてくるところの、その日までに先人諸氏が汗と涙で使いコナしておいてくれた OS のことなのだ。

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2006年11月 3日 (金)

無償のIT、グーグル

前の記事で 「タダほど高いものは無い」 ことを書いた。 世の中をネガティブに眺めればこう言う話はいっぱい見付かる。 だが、そんな観念だけで毎日を生きるなんて寂しいことだ。 いや、昔も今も 「無償のアイ」 に通じるお話はいっぱいあるではないか。 と、ここまで考えて 最近の IT の場における 「無償」 のことに思いが至る。

それは今 インターネット界 を席捲しつつある グーグル社 の諸サービスのことである。 数年前、痒い所に手が届くような結果を並べてくれる検索サービスに出会って、しかもそこでは目障りな広告が現れないことに驚いたものだ。 広告を載せなくて何で無料のサービスがやれるのかと不思議に思った。 そして、これほど優秀な検索ロボットのことだから、こちらのことをちゃんと見通しで、いつか請求書を送り付けてくるのではと不気味に思ったものだ。

インターネットの黎明期、それを未だ パソコン通信 と呼んでいた 90年代初期に、私は NIFTY-Serve 経由で CompServe の科学技術情報の検索を利用していたのだが、あの頃は全てが有料であった。 回線(電話代/時間)も、接続(ネット利用/時間)も、検索(情報料)もそれぞれ別々に課金され、(真面目な)ユーザーは如何に手早く情報源に行き着き、素早くそれを取り出し、済んだら即電話を切るか の技を磨いたものだ。 今は、時間当たりの課金はそれこそ 「¥0」 に等しく、「情報を金で買う」 と言うのも死語になったみたいだ。

単に 「優秀な検索」 のみならず、グーグルのサービスの拡大は続いている (例1例2)。私も Google Earth で居ながらにして地球上の旅を楽しませてもらっている。 また先月の南ドイツの旅での写真集を CD に載せて、嫁たちに配ったのだが、パソコンに挿入すれば自動的にスライドショーが始まるという便利なものだった。 これも Google によるフリーソフトの一つのほんの一部なのである。 その拡大ぶりは、おじんにはもうとてもついて行けない程だが、いったいこれから先どうなって行くのだろうか?。

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2006年10月23日 (月)

レンタカーでアウトバーンを

Autobahna3a7 39年ぶりにドイツの高速道路を走った。 最初の時は滞在期間の関係で中古のフォルクスワーゲンを買ったのだが、今回はレンタカーで走った。 ドイツの高速道路と言えば、アウトバーン、それはあの独裁者ヒットラーが当時のドイツ国内の失業対策として発案して造らせたインフラストラクチャーなのだという。 正式な初開通は フランクフルト・ダルムスタット間 25kmの 1935年 だから私より年長だ。そして現在は総延長 1万2千km を超えていると言う。 高速道延長では アメリカ (>9万km) や 中国 (>4万km) よりは短いが、国勢 (面積は日本の94%、人口は日本の64%、日本の高速道 >7千km ) から見ればダントツな充実度である。

超高速仕様とも言えるその路線設計の滑らかさは羨ましい限りだし、標識もわかり易く、 サービスエリア の入り口には次の ガソリンスタンド迄 の Km が見易く表示されている。 何よりも素晴らしいのはこの世界一の道路が無料で利用出来ることだ。 また、制限速度も法制上では無いに等しいようだが、一般に乗用車等は 130 km/h を、トラック等は 80km/h が推奨されていて、最近は環境論議から前者を 100km/h 以下にという提唱もあるようだ。 それよりも現在は、修復工事や渋滞や天候等によりもっと厳しい速度制限を設定した区間が度々現れるので、そんなに快適に走ってはおられなかった。

今回 フランクフルト国際空港 で借りたのは、予約した オートマチック車 が無くて、 Hertz のフロントから勧められた ニッサン X-TRAIL(2.2D 4x4 前進6速) であった。 帰国後ネットで国内の カタログ を見ると、エクストレイル の ディーゼル は載っていないから、どうやら欧米向仕様らしい。 日頃 オートマ に慣れてしまった老人には始めやや使い辛かったが、7日も乗っていると前進6速の良さを実感することになった。 総走行は 1437km で 平均燃費が 15.8km/L だったから、今の我が愛車プリウスとは比較にならないが、トラブルも無くよく走ってくれた。 無事故で終わったことを感謝したい。

日頃 妻は (免許はあるが) 頼んでも運転しない。 そのくせ、私の運転がある速度を越すと助手席で足を踏ん張り始める。 それは決まって 100km/h のところだ。 メーターを見なくても分かると言う。 道路や車にもよるだろうが、日本の高速道では この辺りがいわゆる巡航速度なのかも知れない。 あちらでの 130km/h がそれに相当するのかも知れないが、私にとって (妻にとっても もちろん) それはとても疲れる速度であった。 海外で自ら走ることはもう卒業だ。

注);アウトバーン を利用するのは周辺の EU 諸国 などの人や企業が増えているし、その維持運営には大きな国家予算を喰うことから 現在有料化への検討が進められているらしい。 既に、12トン以上の大型トラックについては GPS と携帯電話による IT課金システム が実施されている。

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2006年10月21日 (土)

「黒い森」の民宿で

Cafewasen 「北部黒い森」の中、ナゴルト川の源流域に ゲッテルフィンゲン という小さな村があり、そこに カフェ・バーゼン という民宿がある。 39年前、近くのダム現場での50日間の研修中に私が泊まった宿である。 兼業農家の若夫婦と、おばあちゃんと、赤いホッペのお嬢ちゃんと、誕生日前の坊やの一家だった。 他に客は、ルーマニア 系の老夫婦だけで、彼らはとても長期に滞在していた。

Goettelfingen67_1 朝昼晩の3食ともそこで頂いた。 ただし、土日は一切お構いなしだったから、日帰りや一泊で出掛けて、国内の出来る限り多くのダムを見学した。 車はもちろん フォルクスワーゲン。 ケルンを発つ時に中古を買ったものだ。 今回の旅を レンタカー でやるという蛮勇が生まれたのは、その経験があったからだ。 でも、当時の アウトバーン は、今よりはみんな (ベンツ以外は) ゆっくりと走っていたように思う。

さて、その一家の皆さんはもとより、村の誰も英語を話さなかった。 こちらの英語だってハナセルほどではなかったから丁度いい。 ドイツ語の辞書をめくってはやりとりをしたものだ。 やや足が不自由だが、いつも笑顔のおばあちゃんは台所を担当していた。 豪華ではなかったが、私にはとても美味しい料理だった。

Goettelfingen06 久し振りに訪れてみると、道路も良くなっていたが、村の家々も随分と新しく賑やかになっていた。 その民宿の建物はそのままであったが、新しい往還道が裏側に出来て、昔のそれが裏道のようになっていて迷った。 もう オフシーズン だし、家人は農作業に出ていたのであろうか、玄関は閉まっていて人影はなかった。 宿の経営はあの坊やが継いだのであろうか?。 数年前、英語で書いて送った手紙の返事は無いままだ ・・ 。

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2006年10月19日 (木)

丸い帝国自由都市 ネルトリンゲン

Meteoriteimpact 私共の南独の旅の第4日目には ロマンチック街道中央部の リース盆地 にある ネルトリンゲン を訪れた。 リース盆地 が実は、1500万年前に起こった隕石の衝突によって出来た盆地であったと言うことは、今からほんの45年前にアメリカの二人の地質学者、シューメーカー教授 と チャオ博士 によって解明されたのだと言う。 左の画像はその衝突の想像図である。

そのパンフを読むと、隕石の直径は約1km、衝突時に出来た直接の窪地は直径12km、在来の岩石が衝撃と高熱で溶けて押し出されて出来たクレーターは直径25km、その時の総エネルギーは ヒロシマボンブ の25万倍だったとある。 この事実が解明される前までの、この地の人々は何かを感じていたのであろうか?。 何も知らないままに、このような円形の都市を造ったのは、何故であろうか?。

Noerdlingen ネルトリンゲン は中世のドイツに多く成立した「帝国自由都市」の一つだと言う。 地方領主や司教をいただかず、皇帝直属の地位をもって一定の自治を行使した市民は、自ら外敵を防御したのであろう。 一定面積の居住区を守るのに最も効率的な (短くて済む) 城壁は円形である。 ただし食糧は外側の耕地で作った筈だ。 右上の衛星画像で、耕地のラインまで丸く見えるのはその効率のせいであろうか?。 それとも、時速7万kmで衝突し、地中1000mにまで突き刺さって溶け散ったあの隕石のパワーがなせる業なのであろうか?。

Suevite 町の中心にある 聖ゲオルグ教会 は15~16世紀に建てられ、その材料には、隕石衝突によって出来た変成岩が使われていると言う。 その教会の、高さ 90m の塔 「ダニエル」 に上ると、町を取り囲む城壁が丸くて、その向こう遥かに見える台地もまさしく外輪をなしていることがよく分かる。 ロマンチック街道の街々の歴史は、掘り下げてもせいぜい数千年・・。 それよりも百万倍も長いこの遠大な地質の歴史を想うと、大きな大きな地球のロマンを感じずにはいられなかった。

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2006年10月11日 (水)

欧州分水嶺

Wtrshedpost_1 私共の南独の旅の第4日目はロマンチック街道の中央部、ローテンブルグネルトリンゲン の間を往復した。 街道の公式マップには、この区間上で ライン流域 から ドナウ流域 への 欧州分水嶺 が横切るとの一文がある。 水資源開発の仕事をやってきた身にはとても興味があることだ。 しかし、その地図上には何のマークも無い。 経験上、5万分の1地形図でもあれば容易に見つけることが出来るのだが、観光用の地図では全く判別出来ない。 そこで助手席の妻に 「ライン/ドナウ (Rhine/Donau)」 と大書した道標が立ってる筈だから注意しているように頼んだ。 妻は生来近眼だったのだが、最近は遠くも見えるようになった!らしいので。

ところが、それらしいものを発見出来ないままに、道は既に ドナウ源流 の一つである ヴェルニッツ川 を渡っているではないか。 日本でなら、「分水嶺」 と言えばあちこちで観光ポイントになっていて、それらは当然のことながら 「峠」 を横切っている。 欧州のアルプス一帯でも同様であろう。 ところがこの広大な大陸部分を流れる ライン河 と ドナウ河 との流域境はそれほど明瞭では無いらしい。 現に、標高がはるかに高い ドナウ の水が地下水になって、それよりぐんと低い ライン側 へ隠れて大量に流れているのだといい、これを 「流れの横取り = Stream Capture 」 と呼んでいるのだそうだ。

今回の旅では、後日、ドナウ の主たる源流である 「黒い森地帯」 を走ったのだが、そこから ライン河 に向けての急な長い下り坂でその落差を実感した。 ただし、当日の興味は地上の分水嶺を見付けること。 帰り道、ディンケルスビュール を過ぎてしばらく、後続の車が明らかにイライラしてるのを感じながらも、根性の低速走行で遂に発見したのが写真の道標である。「 Europauische Wasserscheide = European Watershed = 欧州分水嶺 」、その意味はとても大きいのに道標のサイズはめちゃ小さいものであった。 しかも、その設置場所は正しく峠の位置だとは思えないところで、もとより地理用語に弱い妻は、ますますワカランという顔をしていた。

Euwatershed 目を凝らしてくれた妻には申し訳ないが・・、道標の向こうが ラインの大地、こちら側が ドナウの大地、そこに立っただけで私は欧州大陸の大ロマンを実感したのであった。 そこに一緒に降った二粒の雨は、わかれ別れて、一つははるばる北海に、一つははるばる黒海に流れていくのだから・・。

注);上の衛星画像は、帰国後に GoogleEarth から撮ったものである。生憎、肝心のポイント付近の解像度が悪いが、あちらの分水嶺がおよそ 「峠」 らしくないところを走っていることが良く分かる。

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2006年5月14日 (日)

熱帯雨林

Cairns 今週は、オーストラリアのケアンズに滞在して二つの世界遺産、グレートバリアリーフ と 熱帯雨林 を見学する予定である。 一昨年にも訪れているので、私にとっては二度目である。 多くの人が何度も行きたくなる観光地があるとすれば先ずここだろうと言いたい。 大自然も人々もいいが、「社長!シェン円!シェン円!」という押し売りがいないのもいい。

さて、前回の時にぼんやりと感じたことだが、「世界遺産になるほどの密林なのになぜこんなに簡単にアプローチ出来るのか?」 という疑問があった。 多分、本物はもっと奥地に広がっていて、その端っくれだけを見せているのだろうと、あのアマゾン河の密林地帯を連想しつつ疑っていた。 ところが、GoogleEarth で見てみると、いずれの観光ポイントも当該森林域の真っ只中にあることが分かった。

ケアンズをほぼ中央に置いて、クイーンスランド湿潤熱帯地域(世界遺産)があるのだが、それは広がっているというよりは、ほんの数十Kmの幅で海岸線に沿って走っているという感じなのだ。 その北端にある、世界最古の森として有名なディンツリー国立公園などは密林そのものが海岸に押し出してきているのだという。

地球の南半球の諸大陸はかって一つ(ゴンドワナ大陸)だったというが、それから出来たオーストラリア大陸にはその数億年来の生き残りが、内陸の砂漠化に押されてこのように海岸寄りに今も頑張っているのだろうか?。  あのジュラシックツリーのように、いつまでも生き残ってほしいものだ。 だから、現地の環境保全に心して見学して来ようと思う。

上の写真はケアンズ周辺で今回訪れる諸ポイントを指したものである。熱帯雨林の幅がとても狭くて、人気の観光地キュランダはその只中にあることが分かる。写真から外れているがディンツリー国立公園はパームコーブから更に北に行ったところにある。右側の海がグレートバリアリーフそのものだ。

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2006年4月26日 (水)

黙示のニガヨモギ

チェルノブイリ原発事故から今日で20年。 マスコミにもネットにもこの話題が溢れていて、当然の事ながら内容は全て切実である (例外もある)。 私も、そんな気持ちで何か書こうと昨日から取り組んだ。 そして段々と空しくなって来た。 やっぱり暗い話題は好まないし、「おまえ、それで何なのさ?」 と自問してしまうのだ。 ブログの素材にするためにしかあの事故を捉えられないことがとても恥ずかしい。

思いが定まらないままにネットを調べていて、「チェルノブイリ」 という地名の意味を知った。Elena Filatova というウクライナ女性がカワサキのオートバイを駆って前に住んでいた事故地域を訪れてはレポートをしているその日本語サイトを見たからである。 その意味は「ニガヨモギ」。 新約聖書のヨハネの黙示録では、たいまつのように燃える星の名で登場して、これが地上に落ちて、水を苦くして多くの人が死んだと言う。 遥か昔に、この地の悲劇が予言されていたのだろうか・・・

更にこの植物名を調べると、陶酔性で興奮作用を持つというその成分を含んだ 「アブサン酒」 が、19世紀の欧米でもてはやされたが次世紀の各国で製造販売禁止になったという (日本では合法)。 あの画家ゴッホの狂気もこの酒のゆえだったという。

Chornobyl レポートに写された現地のニガヨモギは、焼け爛れたように荒廃した背景の中で優しい緑色だ。 彼女の説明が続く ; 「自然は土地を容赦なく再生させる。 数百年の間に、人間が居た証拠は消え去ることだろう。 放射能はさらにその後も残る。 この土地の未来には、放射能とニガヨモギ - 忘却の草 - があるのみだ。」 と。 (右の画像は2007年現在のGoogleEarthによる現地の衛星写真である。冷却水用の人工湖の左上が原子炉の残骸である)

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2006年4月24日 (月)

私論茶経(7)= 抹茶

抹茶は今や「お茶」のカテゴリーを超えて日本中で人気爆発中のようだ。 もとより、茶葉を使った料理は昔からあった。 が良くも悪くも、それらには茶葉の残骸が見えるものが多い。 ところが、抹茶はそうはならないし、それが含まれる製品は全て 独占的に あの 「優しい色」 になる。 そのほろ苦い風味は今の時代に合う。 だからその製品は、食品に、和洋菓子に、ボトル飲料に、そして外資系のファストフード店のメニューにも並んでいる。

抹茶は碾茶を挽いて粉にしたものだ。 そして本来の碾茶は、茶畑に覆いをかけて日光を遮断して柔らかい新芽のみを手で摘み取った茶葉を蒸して作る。 数ある「茶」の中でおそらく工程が最も多くて完成までの期間が長い品であろう。 実は、中国唐代の陸羽(8世紀)が著した茶についての不朽の聖典である 「茶経」 に(主として)登場する茶も、粉末状にしてお湯で煮立てて飲むものだった。 が、その元はいわゆる碾茶ではなく餅茶であった。

この書には当時の茶の分類として今の日本の抹茶に近いと思われるものを 「末茶」 と称して挙げているが詳しく述べられていないし、現在の中国茶ではこれに相当するものが無い。 また 「茶経」 が言うところの製茶法は現在の中国ではもはや主流ではなく、特にその前段(茶葉を蒸すこと)はあちらでは殆ど消滅して日本の緑茶の製法に伝えられているのみだ。 更に、製品を全て飲用してしまうと言う当時の作法も現在あちらでは一般的ではない。 (現在のところ)抹茶という緑茶は日本のみで生産されている茶なのだ。

Inariyama さて、「抹茶と言えば宇治である」、と言うのは必ずしも正確では無い。 少なくともその原料である碾茶の生産は (市町村単位で言えば) 愛知県西尾市が日本一であり、京都府の和束町と宇治田原町がこれに次ぐ。 府県単位で言えば京都府の 618t と愛知県の 475t (いずれもH17年産統計) とで日本の (今のところ世界の) 殆どの抹茶が賄われているのだという。 (左は日本一の碾茶どころ稲荷山茶園の衛星写真)

ところで、「八十八夜の抹茶はいいねえ」、と言うのも実はおかしい。 その原料の碾茶は確かに5月中頃に摘まれて作られるのだが、それを直ぐに挽くのではなくて、秋口まで零下の温度で保管熟成してからなのだ。 そしてあのように細かく挽くのは昔も今も石臼でしか出来ないという。 その最適品は西尾の隣の岡崎産の花崗岩(岡崎みかげ)だという。これが抹茶工場で何百台も並んで回っている光景は実に壮観である。

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2006年4月20日 (木)

ミリタリーマップ

今から206年前の昨日、当時 55才の伊能忠敬 (1745-1818) が蝦夷地の測量に出発した。 50歳の時に醸造や水運それに下総国佐原の役職等々から隠居し、江戸に出て測量と天文観測を学んだ後にである。 その意思たるや、そしてその成果(#1)たるや、測量士の端くれである私には尚のこと、彼がとてつもなく偉大なお方に思えるのだ。

それは11代将軍家斉の時代で、黒船の浦賀来航は未だ後 (1853) のことだが、既に 1792年には帝政ロシアのラクスマンが根室に入港し通商を求めていたから、幕府にとって蝦夷地の把握は緊要なことだったに違いない。 のみならず、伊能図の有用性は彼の死後も益々高くなり、幕末には英国艦隊がその小図を持ち帰り、日本陸軍は長くこれを基本の図としたという。 これらは関東大震災で全て焼失したと思われていた。

が、近年になって米国議会図書館や海上保安庁海洋情報部から 写本が発見された という。 そもそも地図とは国土を把握した図のこと。 だから今でも多くの国でこれの通称を 「ミリタリーマップ」 と言うのだ。 農業開発や水資源開発のための技術援助の仕事で海外に行くと、私達が先ずやったのは当該地域の地形図 (殆どの国で5万分の1の国土図のこと) を入手することであった。 行き先は決まって国防関係の役所だった。

しかし現在は、例えば日本では、国土の地図を司るのは軍人ではなく文人 (国土地理院) である。  更に今や地形の情報は、国毎の体制や都合を超えて、地球規模で、しかも無料で提供されている。 思うに、ITの時代とは物凄い時代なのだと思う。

Japan 注; (#1) をクリックすると現れるのは実際の日本の地形と伊能図のそれとを対比したもの。 その範囲を現在の GoogleEarth で見たものが右の写真である。(クリック→)

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2006年3月29日 (水)

残影のロブノール

今から106年前の昨日、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンが、シルクロード東部の要衝であった楼蘭の跡地を発見したと言う。 いつも送られてくる大型家電店からの顧客宛メールに 「今日は何の日」 という記事があって読んだのである。 いつか訪れてみたいところだが、妻は、あちらは 「トイレが汚いそうだからいや」 と言う。 それではと、いつもの衛星に乗ってみた。

ところが衛星写真では、大陸奥地の砂漠や土漠の様子は、地形の高低も、地味の乾湿もその判読が難しい。 まさしくそこに灼熱と強風を見る思いだ。 それでも、地図を参照しながらズームアウト(遠望)とイン(接近)を繰り返すと、先ず現存する都市の位置が分かってくる。 それらの位置関係から、今はもう失われてしまった旧跡の位置までもはっきりと見えてくる訳だ。 だから GoogleEarth に入ると時間の経つのを忘れてしまう。

Tonkou 左の写真をクリックすると中央やや左寄りに楼蘭の位置が現れる。 そこに見える黒い耳たぶ状のものが 20世紀半ばを最後に完全に乾燥してしまったロブノール湖の残影だ。 その左方に広がって行く茶色がタクラマカン砂漠、その上に天山山脈、下に崑崙山脈が横たわる。 それぞれの内側に二つのシルクロード(天山南路と西域南道)があって、画面中央にそれらの分岐点だった敦煌がある。 GoogleEarth で見ると、新しく整備された敦煌空港が砂漠の中に突き出ているのがきれいに見える(クリック→)。Dunhangap

私は、シルクロードに関わるテレビ番組はいつも興味を持って見る。 本当に行ける機会が来るのかどうか分からないが、それまでは、高ーい空から眺めては土地勘を養っておくことにしようと思う。

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2006年3月27日 (月)

遥かなるインパール

kialbm03 「実は私の弟はインパールで亡くなったんさ・・」、昨日の記事で紹介したK先生は、1983年11月にビルマ国プロームの私共コンサルタントのキャンプに滞在された時に初めてこうおっしゃった。 私がインパールについて知っていたのは、そこで多くの日本兵が戦死したことと、ここを流れる大河イラワジの上流にあるらしいことくらいだった。 実はプロームの郊外の古いパゴダの下にも無名日本兵の墓標があった。 彼らはそのインパール作戦で散ったのであろうと、その郷愁のお気持ちと無念さとを想った。

次の日曜日、私逹は先生に同行して、その墓標を訪れ、周りの草刈をして、ほんにささやかな野の花を手向けた。 墓標に向かえば、その向こうに遥かなるインパールの空を見る思いがした。 でもあの3万人という戦死者は、実はインパールの地に於いて亡くなったのではなく、そこに攻め入る途中で、又は敗走する途中でほとんど餓死に近い戦死をしたのだと言う。

インパール・・、何故そんな奥地を攻めねばならなかったのか?。 Wikipedia によれば、そこは当時、アメリカや英国から中国の蒋介石軍への大量の兵器弾薬の輸送拠点であり、インドを植民地とする英軍の重要地点でもあったと言う。 知らなかったことだが、昔も今もインパールはインドの地なのである。

inphal 右の衛星写真には、左上にインパール(Inphal)、その下方に私たちが拝んだ墓標のあったプローム(Prome)、そのやや右上にミヤンマー国の新首都ピンマナ(Pyinmana)、その右方向にあのゴールデントライアングル、そのはるか右上に中国雲南の都の昆明(Kunming = 蒋介石が居た重慶への途中に当たる)がある。 計ってみると、傷ましい戦跡が周りに点在するというあの墓標から、彼らの目的地インパールまでは遥か 690Km の距離があったのである。

この記事を書くに当り、窪田様のサイトを発見し非常に参考になりました。有り難うございました。

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2006年3月21日 (火)

クルド兵とキャップの水

今から33年前、私はイラク北部の山岳地帯でダムサイトの踏査をした。 あのサッダーム・フセインが国軍司令官になった年である。 踏査の目的はチグリス河の支流に予定されたダム建設計画のコンサルタント業務の見積もりのためであった。 指名された企業8社の内、日本は我々だけで他は東欧諸国やイラクの企業だったし、現地に入ったのも最後のようだったので勝ち目は無かった。 が、イランの現場帰りの私は34歳、元気一杯だった。

その時初めて、所轄の灌漑事務所のあるモスル市の地名が「モスリン」と言う布の語源だと知ったのだが、目的地はそこよりチグリス本流を離れて車で数時間、クルド人自治区の真っ只中であった。 峡谷をはるか下方に望む尾根に立てば、更に上流に展開するザグロスの山々の向こうはイランであった。 そこは素晴らしいダム適地だと思われ、勇んだ私は高低差数百メートルの急な崖を下って谷底まで降りることにした。

上司の日本人2人とイラク人アテンダントを上に残して、私にはクルド人の若い兵士が二人付いてくれた。 谷底近くは更に急な崖になっていて水の流れに近づくことが出来なかったが、踏査の目的は達した。 岩の上で一服しようとザックを探ったら、水筒の蓋が緩んでしまっていて、残っていた水はカメラレンズの蓋に注いで丁度3杯分だけだった。 それを3人で分けたのである。 結局私は、帰りの登りで脱水症状になり、迎えのロバに乗せられることになってしまった。 その時に口に入れてもらった、青いぶどうの実の清冽な味が忘れられない。 二人がロバを引きながら 押しながら、私のために摘んでくれたのだ。

khajilgomel クルド人嫌いのフセインは、あの年から6年後に大統領になり、それから24年後にその政権に対して米英がイラク攻撃を開始した。 それから昨日で3年、戦死した米兵の数2千3百も痛ましいが、イラク人の死者は3万人を越えるという。 生きているのなら共に53歳、あのクルド兵達は今どうしているのだろう?。 衛星写真を見ると、そのダムの現場に機械や人の影が無い。 工事は途中で止まったままのようだ。

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2006年3月17日 (金)

ふるさと

yoshiwara 今日は私の母の41度目の祥月命日、久し振りに墓参りに出掛けた。 住まいは名古屋市東部で、生まれ故郷は三河西部だから、車で30分の距離、その名も「境川」そして「逢妻川」を渡れば直ぐだ。 なのに、訪れるのは稀になり、その度に我が故郷の変わりように感じ入る。

生まれ育って19年後に進学のために故郷を離れてからもう48年になる。 ほぼ6歳の時に終戦だから、子供の頃の思いでは空腹の風景ばかり、♪兎を追う山はもう無かったが、まさに♪小鮒取りの毎日だった。 魚取りのことを ポンツク と言ったが、それも小学2,3年の頃には出来なくなった。 川上にさつま芋から作るデンプンの工場が出来て、綺麗な小川の流れはそのカスでどろどろに汚れてしまったからだ。

でも、昔の故郷には匂いがあった。 毎年八十八夜頃に、集落のあちこちから茶葉を蒸す匂いが湧いてきて、シーズンを過ぎても残り香が漂ったものだ。 我が家にも茶畑があって、そういう小農家が集まって製茶組合を作っていた。 父は未だ若いメンバーだったが、長老の皆さんの三河武士的な文化度の高さが、今になってよく分かる。 貧相な農家なのにどの家にも巨大な仏壇や、子供にはとても読めない掛け軸や書額があった。 彼らは互いに相手のことを「キサン(貴様)」と呼んでいた。

そして厳冬に行われる 「ホンコサン」 には胸が躍ったものだ。 浄土真宗の「報恩講」のことである。 お勤めするのは大人や青年団だったが、彼らのお経の合唱を頭の上に聞きながら、お寺さんの真っ暗な縁の下で侍ごっこをしたからだ。 なにしろ夜中に皆と遊べたのはその法要中の一週間ほどだけだったのだ。

今はもう、そんな匂いもしなければ、チャンバラをする子供も見ない。 行き交うのは自動車部品を乗せたトラックばかり。 小川の水は澄んでいるようだがポンツクの風景はもう無い。

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2006年3月13日 (月)

台北101

私共の初めての台湾旅行はたったの3泊4日で、滞在したのは首都台北だけだった。 とは言え、数年前までは殆ど知らない国であったのだから、海外勤務の多かった身としては久しぶりに胸躍る旅になった。 たぶん今後も訪問する国になるだろうからと、そんな意気込みで、先ずは世界1高いビルという 「タイペイ101」 に登った。 ここの世界1は色々あるらしく、例えば、尖塔トップ=EL.508m、建物屋根=EL.448m、実働フロア=EL.438m、エレベータ速度=1,010m/min、揺れ止めダンパー重量=660t などが挙げられている。

展望室 (89階、EL.382m) から見る台北のパノラマは、JRセントラルタワーズ (51階、245m) から見たことがある名古屋のそれよりは中々美しい。 位置が高いことは勿論、国が違うことも勿論だが、更に何かが違う・・。 そう、あの赤茶けた鉄道の操車場が見えない (市街部分では地下にもぐっている) のだ。 台北の新名物のMRT(いわゆる地下鉄)が地上を走る部分があるが、見えるラインはスマートだ。 そこここの公園の植え込みのラインも色も美しい。

taipei101 今回の旅では台北近傍の茶所である坪林や木柵・猫空を訪問した。 そこから帰って来て、もう一度101に登って見たくなった が 時間が無かった。 台湾では、高い所ほど良い茶が採れると言うが、そんな山々を世界1の超高層ビルからもう一度遠望して見たかったのである。 世界では高層ビルの高さ競争が今も続いている。 この101も、来年には世界1の座を譲り渡すことになると言う。

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2006年2月26日 (日)

マルコスの遺体

今朝の新聞に、アロヨ大統領の退陣を求めるフィリピンの首都マニラの市民の写真と、あのマルコス元大統領の遺体の写真とが載っていた。 20年間の独裁政治で巨大な蓄財をした彼が民衆に追われるように国を脱出してから更に20年も経っていて、しかも彼がハワイで死亡したのは脱出後数年のことだった筈だが。 ・・なんと、彼は生まれ故郷のイロコスノルテ州バタックでガラスケースの中に横たわっているのだという。 (バタックは州都ラオアグに近い小さな町である)

その理由は、国民英雄墓地への埋葬を希望するマルコス家に対して比国政府がOKを出さないからである。 スイスの銀行に預託した蓄財が、はっきりした分だけでも400億円相当で、さらにその数十倍も何処かに隠されているらしいという、そのような人物(の遺体)が未だにこの地上に残っているのは何故だろうか。 レイテ島の地滑り被災地をハイヒールで訪れた、あのイメルダ夫人のシタタカサのゆえのみなどとはとても思えないのだが。

ilocosnorte マ家を支援して「マルコスは英雄であった」 と署名をしたのは約百万人だという。 この数字を見て、彼がまさに独裁者であった頃の彼の地を思い出す。 私は、1978年と1980年とで述べ4ヶ月、イロコスノルテ総合灌漑計画のダム担当としてJICAによる技術協力に参画した。 右の写真の中で、上部の5本の川が集まって流下する地域がイロコスノルテ州の田園地帯で、計画は、そこの水不足を補うべく山脈の反対側のティネグ川にパルシグアンダムを造って長大なトンネルで導水しようとするものであった。

そのダムサイト踏査に入るべく、該地のアブラ州都バンゲットに知事を表敬した時である。 「アブラはたったの20万人、だがイロカノ100万人のために我がティネグの水をやる訳にはいかない!」 と、巨体で酋長のような風貌の反マルコス的な知事に一喝されたことを思い出す。 飛ぶ鳥を落とす勢いの大統領の威光も、山中の民衆には通じていないのだなあと感じたものだ。 彼の国の自由度は凄いと思う。 ピープルズパワーもあれば、お腹が脹らんだ小さな独裁者もいっぱい居る。

写真で見る通り、あのダム事業は実現していない。 それで良かったような、寂しいような気持ちである。

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2006年2月10日 (金)

黒い森

黒い森はどこにもある。 でもこれをドイツ語で Schwarzwald と書けば、これは固有の地名で、フランスとスイスとの国境に広がる森林地帯のことである。 今ネットで検索すると、ここで6月に浦和レッズが合宿することとか、フランスケーキのフォ・レノワール(=黒い森)のグルメ記事ばかりがヒットする。 でも、私の思い出は今から39年も前(1967)のことである。

その年、私は当時の西ドイツに滞在して、灌漑施設への瀝青舗装の適用法について実地研修をした。 水路やダムの内側をアスファルト舗装して水漏れを防ぐという技法のことである。 研修は、設計法と施工法と試験法とでそれぞれに3ヶ月ずつで、その内施工の研修地はこのシュバルツバルドの中の渓谷に造られていたナゴルトダムの現場であった。

その時の宿は、森の中に開けた耕地の中の一軒のペンションであった。 そこの家族は、料理の得意なおばあちゃんと兼農の夫婦と小学低学年の女児と男の赤ん坊とで、誰も外国語を話さないし私はドイツ語が話せなかったので、夕食後辞書を片手にワイワイとやりとりしたことが懐かしい。 最近は「観光農業」とか「農家滞在」ということが言われているが、その原型を見た訳だ。

nagold-dam 右の写真の中央に痩せた胃袋のように黒く見えるのが現在のナゴルトダム湖である。 ちゃんと水が溜まっているようなので、あの時の巨大な堰堤斜面の舗装が巧く働いているのだと思う。 池の左下、森の道を上りきった所の耕地にあのペンション「カフェ・バーゼン」がある筈だ。 並木の熟れたりんごがとても小さくて驚いたものだ。 耕地の周りは樅や松などの森である。 これらが段々と枯れて行ってしまうのだという。

あそこは今はどうなっているのだろう? 再訪出来たらな・・と、昨年英語で手紙を出したのだが応答は未だ無い。

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2006年2月 9日 (木)

ピンマナ遷都

ブッシュ米大統領は先週の一般教書演説で、当面の施政方針として外交・安保では「圧制の終結」を長期的な課題とし、世界でまだ民主化していない国の例として、シリア、ビルマ、ジンバブエ、北朝鮮、イランを挙げた。 ミヤンマーのことを敢えてビルマと呼んだのは、1989年に不意に国名を変えてしまった現軍事政権を認めたくないという心からであろう。

演説の数日前、世界中の人権擁護団体からのデータに基づいて「パレード誌による世界の独裁者ワーストテン」が発表されているが、そこでは第3位に「ビルマ(ミヤンマー)のタン・シュエ議長」を挙げてその「罪状」を並べている。 その中には、「120年の歴史を持つラングーン(ヤンゴン)から394Kmの僻地ピンマナへの首都移転を2日の予告だけで決めた」とある。

ピンマナに決めた理由については、軍事的に有利な立地だという見方が多い。 が、ジェット・ロケットの時代の今あまり実感が沸かない。 ますます孤立化を深める該国の為政者の考えは一体何なのだろう?。  ピンマナという町はかって日本軍の司令部がおかれた所だという。 もちろんそれは関係ないだろう。 でも、今、私は一人の大先輩K氏を思い出す。

Pyinmana 1975年頃からの社会主義共和国化が進む中、87年には国連から最貧国と認定されたが、88年の軍事クーデターで独裁的政権が生まれると欧米諸国からの支援は止まった。 しかし日本は、深く静かに支援を続けて来たのである。 その一環としてのピンマナ一帯の灌漑事業のコンサルタントとして一人で現地に滞在したのがK氏である。 写真の右上寄りにあるのがそのピンマナダムだ。(クリックするとピンマナの町も見える)

彼は自分のプロジェクトを仕上げると、私が担当していたサウスナウイン灌漑事業の設計を手伝いにプロームまで駆け付けてくれた。 彼は今も「ビルマの農民たちの為に」現地に滞在している。 奥様もご一緒に・・。 連絡を取ることは容易ではないが、二人のお元気を祈るのみである。

注) ; 該国政府はこの地を Naypyidaw (ネーピードー) と名付けた。 英語で Royal City と言う意味である。

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2006年2月 1日 (水)

砂漠に消える大河

miankangi アフガニスタン第2の都市カンダハールを流れるヒルマンド川は西に流れてイラン国境で消える。流れが豊富な年は消えずに広大な湖水となっていた。しかし現在はアフガン国内のダムで止められるので、このヒルマンド湖は長年消えたままだ。かっての洪水期には、この写真中央のザボールの町を中心にして反時計回りに水が溜まって行ったのだ。今見えるのはその干上がった跡で、白いのは塩分だ。その中、Kuh-i-Khaje(クエハジェ)という小山が見えるが、これだけはいつも湖上に頭を出していた。

この写真の視点位置は上空約14.9Kmであり、右端を東京駅の位置だとすれば左端は静岡駅の位置に相当する。シスタン平野の広さとヒルマンド湖の大きさを想像してほしい。

私は1971から1973にかけてイランに赴任し、始めの3ヶ月はこのザボールに宿泊して、灌漑事業のための測量とレイアウトをした。当時のイラン政府(脱イスラム的王政)は欧米や日本のコンサルタントを雇って、このシスタン・バルチスタンの地の遠い昔の緑を取り戻すという大事業に取り組んだのである。中央やや下に貯水池群が見えるのはその成果(チャヒニメ湖)であるが、4つに見えるのは水が十分でないために浅くなってしまったからであろう。現在それらが周辺を潤しているような気配は残念ながら無い。

当時私たちが計画した水路は導水・排水合わせて約650Kmだが、この衛星写真を拡大してみると、それらが干上がった痕跡らしき幾つかの線が見える。驚いたことに私の記憶の範囲よりもっと広く線の痕跡が見える。太古の昔から100年ほど前迄はそれほどに緑の沃野であったのだ。

あのハードボイルド作家の生島治郎が描くように、灼熱の砂漠の午後は猛烈な風が吹き、遠大な歴史までも吹き飛ばす。 ここが、かってはとても豊かな水と緑の大平原だったこと、シルクロードの西域南道終着点だったこと・・、あのチムールが戦い敗れたところ・・、それを知っているのはその孤高な岩山、クエハジェ、もうおまえだけかも・・・。 

そんな不毛の地を東から西へ多くのアフガン難民が歩いたのはつい最近のことである。

( 生島治郎著「汗血流るる果てに」 のクライマックスで主人公の筧を助けたエンジニア松尾は、私共の数年後にその灌漑事業の工事監理をした後輩がモデルになっている。もちろん、筧という人物は実在しない。)

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2006年1月29日 (日)

虹の橋から

これは既に亡くなった愛犬から、その誕日に、飼い主さん宛に届けられるメールのタイトルである。拙「老犬がんばれ台帳」の登録犬は彼らの一周忌にみなこれを書く。「虹の橋」とは全ての動物たちが渡って逝くところ、天国の入り口のことだ。「三途の川」と言うよりははるかに感じがいい。

この言葉は、古くは北欧神話に登場しているようだが、動物を愛する人々の間に広まったのは作者不詳の英文詩によるもので、アメリカインディアンの伝承に基づいていると言われる。命名の趣旨は違うだろうが、ナイアガラ滝の下流にはこの名前が付いた橋もある。

「天国の、ほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。この地上にいる誰かと愛しあっていた動物は、死ぬとそこへ行くのです。」で始まるそれは、愛する動物を亡くした人にとってとても救いになる詩であり、今や世界中の言語で紹介されているし、これから派生した詩も多い。日本語訳も多いが私が時々読みに行くのはいっけさんのところだ。

hwirainbow 2001年に同伴でのクラス会でホノルル沖のディナークルーズを楽しんでいた時、突然舞台の演奏が「虹の彼方に」に変わった。妻と甲板に出ると、虹が出ていた。亡きタロが旅の無事を祈ってくれている・・二人は無言のまま・・思いは同じだった。

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2006年1月27日 (金)

南国のチョコレート

capayas 昨日の記事にある「フィリピンでの技術移転」の成果として比国灌漑庁の若い技術者たちに安定計算をやらせたダム第1号はボホール島にある。はたして現在うまく湛水しているだろうかと、GoogleEarth を起動してみたら、見事に雲間から現われたのでとても感動した。右の写真をクリックするとその衛星写真が現われる。

このダムは国道の端に作られた農業用の溜め池であるが、近くの町の貴重な生活用水になっている筈だ。筈だと言うのは、この施設は日本の無償援助で出来たものなので、本来の目的外に使うのは不都合だと言われそうだからだ。近くの町とは港町ウバイのことで、写真上部に見える。この地名は、ボホール島の特産品であるウベ芋(有名なアイスクリームの原料。紫芋の仲間か?)の語源という人がいるが真偽は知らない。

ちなみに、今「ボホール」を検索すると各種のサイトがヒットする。日本人のもあるが、多くは海辺のリゾートの話が多い。が、世界でボホールにしか無いものを二つ挙げておかねばならない。それは、あの可愛いメガネザル不思議な小山群のチョコレートヒル(ズ)である。

技術援助の仕事で滞在した時(1985)、私達コンサルタントチームの宿は一つのチョコレートヒルの頂上にある簡素なロッジであった。周りの山々は、乾期には草が枯れてチョコレート色になると言われ期待していたが、その年は雨が多かったせいなのか、あの緑の豊かなオッパイ群が変色したのは焼畑耕作からの延焼のおかげで、色はかなり苦いチョコレートのそれであった。以来、島の農業技術も向上した筈だから、焼畑はもう見られないだろう。