タイ

2006年10月25日 (水)

タイのシンカンセン

今朝の東海道新幹線静岡駅での人身事故は、こともあろうにJR職員の飛び込み自殺らしい。 死者に鞭打つ気持ちは更々無いが、若しこれが大きな事故になってしまっていたらと思うと慄然とならざるを得ない。 「 開業以来、(車内の)乗客の死亡者ゼロ 」 という偉大な記録を更新しつつある日本の新幹線を、彼はどう思っていたのであろうか。 この安全運行への努力は、機械・電気・土木・運行管理・人事管理・IT 等々の諸要素を集大成しつつ現在も組織をあげて続けられていると言うのに。

新幹線を shinkansenn と書いて シンカンセン と読むと、これはもはや国際語である。これを十分知り、傾注する人は、鉄道関係者のみならず世界中に沢山居る (例1) (例2) (例3) (例4)。 東京オリンピック開会直前の 1964年10月1日 に開業して以来 今日まで延走行総距離は 数十億km に及ぶ筈で、地球と月を 数千往復 した距離に相当する筈だ。 日本が誇れるものは数々あろうが、これこそ非常に大きな誇りであると皆が思い、鉄道安全への国民的な協調を持ちたいものだ。

この事実と、欧州諸国でのいわゆる新幹線事故の多さとを比較すると感慨はなお更である。 一方、昨夜の報道によれば、台湾の新幹線の開通は既に1年遅らされて来たが、更に遅延するようだ。 遅延の不名誉などは気にしないで、安全のために十分な準備をしてほしいものだ。

Shinkannsen_1 ところで 一昔前に私は タイ国で、既に シンカンセン を見ている。 その名は、当時の日本の新幹線車両にとても良く似た食べ物に付けられたもので、私にはとても美味しいものであった。 その珍味は、チェンマイ近郊の水資源開発計画に従事していた時に王立灌漑庁の技師達が地元の焼き鳥レストランで、密かに教えてくれたものだ。 それは現地の竹藪に発生するものらしく、サイズは右上の写真のよりはるかに小さくて色は白かった。 椰子油で炒めて皿にいっぱい盛られて供されたが、私の大好きな シンハビール にとてもよく合った。

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2006年4月20日 (木)

ミリタリーマップ

今から206年前の昨日、当時 55才の伊能忠敬 (1745-1818) が蝦夷地の測量に出発した。 50歳の時に醸造や水運それに下総国佐原の役職等々から隠居し、江戸に出て測量と天文観測を学んだ後にである。 その意思たるや、そしてその成果(#1)たるや、測量士の端くれである私には尚のこと、彼がとてつもなく偉大なお方に思えるのだ。

それは11代将軍家斉の時代で、黒船の浦賀来航は未だ後 (1853) のことだが、既に 1792年には帝政ロシアのラクスマンが根室に入港し通商を求めていたから、幕府にとって蝦夷地の把握は緊要なことだったに違いない。 のみならず、伊能図の有用性は彼の死後も益々高くなり、幕末には英国艦隊がその小図を持ち帰り、日本陸軍は長くこれを基本の図としたという。 これらは関東大震災で全て焼失したと思われていた。

が、近年になって米国議会図書館や海上保安庁海洋情報部から 写本が発見された という。 そもそも地図とは国土を把握した図のこと。 だから今でも多くの国でこれの通称を 「ミリタリーマップ」 と言うのだ。 農業開発や水資源開発のための技術援助の仕事で海外に行くと、私達が先ずやったのは当該地域の地形図 (殆どの国で5万分の1の国土図のこと) を入手することであった。 行き先は決まって国防関係の役所だった。

しかし現在は、例えば日本では、国土の地図を司るのは軍人ではなく文人 (国土地理院) である。  更に今や地形の情報は、国毎の体制や都合を超えて、地球規模で、しかも無料で提供されている。 思うに、ITの時代とは物凄い時代なのだと思う。

Japan 注; (#1) をクリックすると現れるのは実際の日本の地形と伊能図のそれとを対比したもの。 その範囲を現在の GoogleEarth で見たものが右の写真である。(クリック→)

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2006年4月11日 (火)

私の外国語

私にはちゃんと喋れる外国語は無い。 最近は、「貴方の日本語もなんだかおかしいよ」と妻に言われる始末だ。 でも、現役時代に仕事で出掛けたのは10ヶ国を超えるし、その日数を足すと6年以上になる。 途上国での技術援助が主だったから相手国の人々とはもっぱら片言英語で話し、辞書を片手にレポートを書いた。 レポートは援助元の役所用に日本語でも書いたから、後で、「ここは両者間の意味が違うよ」と、語学の強い役人によく指摘されたものだ。 でもそれだけで、何故か技術の方を論評してくれた役人の記憶は無い。その頃既に日本のテクノクラートは消滅していたのだ。

それはさておき、今思うと惜しいことだが、折角滞在した国々の言葉を身に付けることは出来なかった。 が、業務以外の場での生活用語は否応無く使わねばならない。 それらで今になって思い出せる言葉は殆ど無いが、パーティーの余興用に懸命に覚えたそれぞれの国の歌が一つずつある。 比国の「貴方ゆえに(ダヒルサヨ)」、泰国の「ここに幸あり(#1)」、緬国の「片思い」などなどだが、それらを誰から教わったのかはもう記憶の外だし、歌詞の意味も正しくは覚えていない。

また、1971~73 にはイランのダム現場に家族で滞在したのだが、二人の子供達 (5歳と3歳) の方が ペルシャ語を早く覚えた (#2、mp3 : 650kb : 5分31秒)。 今はもう忘れてしまったのだろうが。

それにしても外国語を直ぐに覚えられる人は凄いと思う。 私の経験からも、自分を含めて日本人は外国語(英語)が確かに苦手だ。 戦後60年、未だにああだこうだと語学教育の手法論議のみが繰り返されているが、そんなの放っといて、若い人たちは習うより慣れろを実践しにさっさと外へ出掛ける時代になった。 「日本」も「日本語」も未だ会得しないままにだ。

今や、外国語=英語 の時代、これに必死に抵抗する 気概ある国 もあるが、私のように、世界中の愛犬家とのメールをやり取りしながら、ネット時代の 便利さ 楽しさ を享受している身から言うと、英語は間違いなく世界共通言語だ。 でも私はやっぱり日本が好きで、死ぬまで日本語の勉強をするつもりだ。

ここで、この記事にコメントを下さったお方のブログの 「英語ペラペラ幻想」 をお薦めしたい。 さすが現場でご苦労なさっているだけあって、すべてお見通しで、実に痛快だ。 更にその続編を読めばもう一枚ウロコが落ちる。 そして更に二枚目のウロコも落ちる。

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(#1) ; タイでは 「ここに幸あり」 は自国の歌だと思っている人がとても多い。

(#2) ; ペルシャ語の1から10までは、イエキ・ドー・セ・チャハール・パンジ・シシ・ハフト・ハシト・ノ・ダであるが、子供らはバンジの次がどうしてもキックになってしまうのだった。

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2006年1月22日 (日)

ミヤンマーのインターネット

前に「ビルマのパソコン」という題で書いたが、今度は国名がミヤンマー連邦と変わって(1989)から後の思い出である。日本は、その頃から孤立化を深めた該国に対して実は静かに技術援助を続行していた。1995年4月に私はその一環として、灌漑庁への短期専門家として派遣された。テーマは漏水のために枯渇してしまったダム湖の診断であった。

mynm954j その原因と対策についての講演の時、灌漑庁の講堂に最新のプロジェクターがちゃんと準備してあったことに感激したものだが、それは日本からの無償援助の研究施設の備品であった。そこには何台かのパソコンも入っていた。でも、会場での質問の中に、ネットでなら直ぐに調べて答えられるのに・・というものがあった。が、あちらでもインターネット環境は未だ国民一般のものではなかった。

私はその夜、ホテルからバンコクのノード(パソコン通信のアクセスポイント)に電話を掛けてもらって、入国の時に唯の計算機として持ち込んでいたオアシス・ポケット3をつないだ。そこからニフティサーブからのゲートウエイ接続により米国のインフォキュー(INFOCUE)に入って科学技術の情報検索をしようと試みた訳だ。以前バンコク滞在中によく利用したのだが、その夜は結局つながらなかった。

myanmarf小さいけど新しかったそのホテルのボーイ君たちが、珍しそうにポケット3を眺めながら何度も電話を繋ぎなおしてくれたことを思い出す。彼らは元気だろうか?、現在の該国のネット事情はどんな風になっているのだろうか? とても懐かしい国である。

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2006年1月17日 (火)

デジタルディバイド

digital divide:この言葉を知らない人は、これが定義している世界の底辺に生きる人である・・なんて冷たいことは、思ってても言わない!。それよりも私の夢は、我が仲良し級友達の間でこれが少しでも縮まることなのである。全国に散らばって、もうイイ歳になって、それぞれの人生を総括すべき段階にある愛すべき友らと交歓する手段として、昨今のITの便宜をふんだんに使いたいのである。

悲しいことに、それが遅々として進展しない。この言葉は、アメリカ商務省が1999年に発表した報告書での造語だと言うが、丁度その年の秋、私たちは「翠天会還暦記念クラス会inチェンマイ」というこの会初めての同伴海外旅行をやった。当時、幹事として私が考えたのは「この機に皆に、パソコン・インターネットを勧めよう」ということであった。

旅行社の言いなりにならぬように、幹事3人の準備は1年も掛けてそれは熱を入れたものだった。級友総数34人の内、メールをやる者11人、もっと増えよと願って、その準備の進捗状況を、自分のHPのサーバーの片隅を割愛して発信した。見てくれた人は僅かだったようだが、それは今でも(事後整理をして)残してある。私の目的はほとんど成就しなかったが、旅そのものは本当に楽しかった。

stnatbkk

以来6年あまり経って、会のメール人口は現在20人になった。でも、全員がこれを使いこなしているという実感は無い。会のHPの掲示板も賑わっていない。歳のせいか、日ごろの連絡で電話でのやり取りが、お互いに(少なくとも私には)とても難儀になっているのも切実である。

ディバイド解消には若い世代との交流が大事だと思う。そこで、最近は携帯が流行っているからとて、「孫とメールするくらいなら、会にも連絡を・・」と呼びかけているのだが・・。

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2006年1月11日 (水)

衛星写真

maekuang この写真はタイ国チェンマイ市東方にあるメクアンダムの衛星画像である。今から25年前、国際協力の技術援助業務で実施設計を担当したダムである。もとより当時はこのダム湖の姿は図面上でしか想像することが出来なかったものだ。

それが、昨年の秋にグーグル社が GoogleEarth というサービスを始めたので、早速無料版をダウンロードして使ってみて、簡単にしかもかなり鮮明に見る事が出来て感動してしまった。

これは、ネット版地球儀と言ったところだが、そのスケールの凄さには言葉も無いくらいだ。鮮明すぎて色々な国の政府から治安上の懸念が出ているとかで、我が家などは庭木の一本一本まで見えてしまう。盗られそうなものは何も無いのでいいが。

この写真の右下に国道が走っている。チェンマイからチェンライ経由であのゴールデントライアングルに行ける道だ。実は6年前にもここを走った。大学同級の還暦記念旅行でである。

バスの車窓から長大な堰堤を遠望しながら、昔の我が仕事を旧友達に説明したのだが、ふと気付くと隣席の妻が涙を拭いていた。涙と言えば、あの頃は「家庭を顧みずに海外に出掛けるなんて!」とよく泣かれたものだ。

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