技術援助

2007年9月30日 (日)

ミヤンマーと日本

Myanmar07 緊迫したミヤンマーでの犠牲者の中に日本人も含まれることになってしまった。 日本政府は、真相の究明と関係者の処罰をミヤンマー政府に求めているが、「関係者」 とは撃った兵士やその上官らのみを指すのでは勿論無い。 それは 「ミヤンマー政府」 そのものだと言わねばならない。 それが 「軍政」 というものなのだ。 少数民族を弾圧し、総選挙の結果を無視し、唐突に遷都 を行い、無謀な物価のコントロールを行う、その為政はとても異常なものである。

そこはしかし、私にとってとても懐かしい国である。 あの国 のあの人々が、なぜあのような政体のままを許して過ごして来たのであろうか?。 既に彼の国を逃れ出ている人々は、故国を正すために 「外国からの援助を止めろ!」 と叫ぶ。 だがこの訴えに私は、昔 (1983 及び 1995) 農業開発の技術援助に参画した一人として、複雑な思いに陥る。 この時に食料や医療や教育関係の援助まで止めていいのかと思うからだ。 たとえ援助を止めて国土が枯れても、結局困窮するのは一般国民だけであって、軍人は決して困らない。 それが 「軍政」 というものなのだ。

悪政を正すべくクーデターが行われても、そのまま軍政が長引けば、それはまた悪政になるのだ。 そんな自明なことを考えながら、思いは彼の国の軍政の繰り返しに至る。 大戦中に日本軍の支援を得て英領からの独立を期した アウン・サン(1942) 。 その後独立 (1948) して連邦となるも、少数民族や共産勢力等による混乱が続いて、それを クーデター(1962) で収めてビルマ式社会主義を標榜した ネ・ウィン 。 それが失敗して1988年の学生暴動などの不安定化を招き、それを再度 クーデター(同年) で収めた ソー・マウン 。 以後社会主義経済を放棄して市場経済化を謳うも、総選挙(1990) の大敗を無視したまま、国軍による圧政は タン・シュエ (1992) に引き継がれて今に至る。 言葉は同じだが、隣国 タイでのクーデター とはその動機も事後の様相も全く違う。

その間、日本の姿勢は謂わば「仏教的」とでも言おうか、該国に対する援助は深く静かに行われて来ている。 それは日本企業群の都合だと言う見方もある。 対して、米国は1991年から対ミャンマ-経済制裁に入っており欧州各国もほぼ同様である。 制裁に反対している中・露・印などの周辺国はシタタカな計算をしているのであろう。 では、これからの日本は如何に対処するべきか?。実は、アウン・サン も ネ・ウィン もかっての日本陸軍「南機関」の下で特訓を受けた軍人であり、当時の日本の軍歌は今も該国軍で演奏されているという。 しかし、日本はいま平和国家であり、経済大国の一つである。 だから、日本及び日本人は、如何なる手段を以って、現今のミヤンマーに対処するべきか?・・、着実に 慎重に しかし早急に・・

注1 ; 国民に「ビルマ建国の父」と尊敬される アウン・サン は英国からの独立を果たす前年の1947年に暗殺された。その時2歳であった彼の長女が、現在軍政によって軟禁されている アウンサンスーチー女史 である。
注2 ; 左上の画像は、緊迫の様子を伝える「ビルマ民主の声」のサイト(ノルウェー発)である。昨日現在では、一般のネット接続が切られてしまったので該国からの発信は不可能になってしまったが、大国の大使館や企業の出先などでは衛星や無線を通じてインターネットに繋ぐことが出来ている筈である。
注3 ; ビルマ(今のミヤンマー)に関わる私の思い出は幾つもある。右枠のカテゴリーで「ミヤンマー」をクリックすればその全てが並んで現れる。

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2006年10月20日 (金)

39年後の ナゴルトダム

Nagolddam 私どもの南独の旅の前半は 文字通り ロマンチック を追っかけたものだったが、後半はセンチメンタルなものに変わった。 ローテンブルグ の宿から マインツ の宿に移動する途中に、私が 1967年 にダム建設の実地研修をした ナゴルトダム に立ち寄ったからである。 このダムサイトは基礎地盤が弱いので コンクリート造り を止めて ロックフィルダム として築造されたのだが、堤体の芯で水を止めるための 粘質土 が付近で採れないので、代わりに池側の斜面をアスファルトで舗装して漏水を防ぐという特殊な工法を採ったものである。

Nagoldwork67 アウトバーン を下りて一般国道から地方道へ、黒い森地帯の北東部にある ナゴルト谷 に沿った道は、既に秋の彩りが始まっていて、早朝からの高速走行で体が硬直してしまっていた妻はやっとリラックス出来てご機嫌になった。 このダムは多目的で、洪水調節と ナゴルト の町への上水源と発電を兼ねているのだが IT で遠隔操作をしているのだろう、管理所に人影は無く、会ったのは散歩の老夫婦と、ローラースケートでダム湖を周回している雪待ち顔の男性だけだった。 上流側斜面の舗装は 39年 を経ているとは思えない程にまだ新鮮な黒色をしていた。

「ドイツで学ぶならドイツ語を話せ!」 とは、ケルンの受け入れ機関でよく言われたことだが、現場でそういうことを言う人はいなかった。 「技術は見て盗め」 と言う程の冷たさもなかった。 ただ皆、特殊な工法を実践しているという自負と真剣さとで、実に厳粛でしかも豪快な雰囲気があったことを思い出す。 工程に大きな区切りが付くと、沢山の ブルスト(ソーセージ) を仕入れて来て、ドラム缶で茹でて振舞ってくれたものだ。

Nagolddam2 私は舗装の専門家ではなくて、ダム構造物一般の設計を仕事としていたので、あの工事現場で見るべきものは他にも数限りなくあって、日本のそれらとの違いを確認したり感心したりしながら ノート片手に毎日々々歩き回った。

このダムより 26km 下流にナゴルトの町があり、更に 26km 下ると カルフ(Calw) の町に至る。 ノーベル文学賞を受けた ヘルマンヘッセ の生まれたところだ。 「車輪の下」 を始め彼の青春文学作品には ナゴルト の流れがよく登場するという。 当時は勿論、今回の旅に際しても私はこのことをまったく知らなかった。 我が青春は もうはるかに 遠い ・・ 。

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2006年9月 2日 (土)

ペルシャ語の名刺

購読している日刊紙の 「中日サンデー版」 という別綴じの中に、「世界と日本:大図鑑シリーズ」 という連載記事がある。 もう750回目にもなるが、毎回一つのテーマが広く深くそして分かりやすく編集されているので、日曜日の朝が楽しみだ。 先日は「世界の文字」というテーマであった。

それを読んで、文字の文化圏とはそれぞれの歴史や文化と一体になったものだということがよく分かった。 まずはラテン文字文化圏が広く世界を覆い、それに加えて アラビア文字インド系文字 漢字 キリル文字(ロシアなど) の文化圏があるという。 そして日本のひらがな・カタカナは漢字から派生したものだが、韓国のハングルは漢字から離れようとして為政者によって作られたという。 国ごとのそういう違いを知るだけでも興味があった。

中にもう一つ心引かれる箇所があった。 それは、来る9月8日は 「国際識字デー」 であって、1965年にイランの国王が軍事費の一部を識字教育に回す提案をして、ユネスコによって制定された国際デーの一つなのだということ。 その王の名はムハンマド・レザー・シャー (パーレビ:1919-80)。 イランで最後の国王であり、ホメイニ師を立てたイスラム教シーア派の人々によるイラン革命によって国外に追われた人だ。

彼が自ら 「シャハンシャー(王の中の王)」 と称して権勢を振るっていたころ、私はイランに滞在した(1971-73)。 ヒマラヤ山系の西端にあるタレガン山地から水を引いてガズビン平野を潤すという灌漑事業の工事監理の仕事であった。 施工業者はドイツ企業と現地企業のジョイントであったから、英語・独語やペルシャ語の勉強も出来た。 当時は、意味はさておきペルシャ文字の音読は出来たものだが、今は全く覚えていない。 二人の息子も、あちらでは親よりも上手くしゃべったものだが・・。

Persiancard 右の写真は、当時私が使った手紙用アドレス(上4行) と 名刺代わり(下4行) のスタンプのペルシャ文字である。 その3行目には 「テヘラン○○通り○○番地」 と記載してあるが、それは現在の私共の住民票にも 「従前の住所」 として生きている。 それを見るたびに懐かしく、わが人生の記念碑のような気がしている。

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2006年4月20日 (木)

ミリタリーマップ

今から206年前の昨日、当時 55才の伊能忠敬 (1745-1818) が蝦夷地の測量に出発した。 50歳の時に醸造や水運それに下総国佐原の役職等々から隠居し、江戸に出て測量と天文観測を学んだ後にである。 その意思たるや、そしてその成果(#1)たるや、測量士の端くれである私には尚のこと、彼がとてつもなく偉大なお方に思えるのだ。

それは11代将軍家斉の時代で、黒船の浦賀来航は未だ後 (1853) のことだが、既に 1792年には帝政ロシアのラクスマンが根室に入港し通商を求めていたから、幕府にとって蝦夷地の把握は緊要なことだったに違いない。 のみならず、伊能図の有用性は彼の死後も益々高くなり、幕末には英国艦隊がその小図を持ち帰り、日本陸軍は長くこれを基本の図としたという。 これらは関東大震災で全て焼失したと思われていた。

が、近年になって米国議会図書館や海上保安庁海洋情報部から 写本が発見された という。 そもそも地図とは国土を把握した図のこと。 だから今でも多くの国でこれの通称を 「ミリタリーマップ」 と言うのだ。 農業開発や水資源開発のための技術援助の仕事で海外に行くと、私達が先ずやったのは当該地域の地形図 (殆どの国で5万分の1の国土図のこと) を入手することであった。 行き先は決まって国防関係の役所だった。

しかし現在は、例えば日本では、国土の地図を司るのは軍人ではなく文人 (国土地理院) である。  更に今や地形の情報は、国毎の体制や都合を超えて、地球規模で、しかも無料で提供されている。 思うに、ITの時代とは物凄い時代なのだと思う。

Japan 注; (#1) をクリックすると現れるのは実際の日本の地形と伊能図のそれとを対比したもの。 その範囲を現在の GoogleEarth で見たものが右の写真である。(クリック→)

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2006年4月11日 (火)

私の外国語

私にはちゃんと喋れる外国語は無い。 最近は、「貴方の日本語もなんだかおかしいよ」と妻に言われる始末だ。 でも、現役時代に仕事で出掛けたのは10ヶ国を超えるし、その日数を足すと6年以上になる。 途上国での技術援助が主だったから相手国の人々とはもっぱら片言英語で話し、辞書を片手にレポートを書いた。 レポートは援助元の役所用に日本語でも書いたから、後で、「ここは両者間の意味が違うよ」と、語学の強い役人によく指摘されたものだ。 でもそれだけで、何故か技術の方を論評してくれた役人の記憶は無い。その頃既に日本のテクノクラートは消滅していたのだ。

それはさておき、今思うと惜しいことだが、折角滞在した国々の言葉を身に付けることは出来なかった。 が、業務以外の場での生活用語は否応無く使わねばならない。 それらで今になって思い出せる言葉は殆ど無いが、パーティーの余興用に懸命に覚えたそれぞれの国の歌が一つずつある。 比国の「貴方ゆえに(ダヒルサヨ)」、泰国の「ここに幸あり(#1)」、緬国の「片思い」などなどだが、それらを誰から教わったのかはもう記憶の外だし、歌詞の意味も正しくは覚えていない。

また、1971~73 にはイランのダム現場に家族で滞在したのだが、二人の子供達 (5歳と3歳) の方が ペルシャ語を早く覚えた (#2、mp3 : 650kb : 5分31秒)。 今はもう忘れてしまったのだろうが。

それにしても外国語を直ぐに覚えられる人は凄いと思う。 私の経験からも、自分を含めて日本人は外国語(英語)が確かに苦手だ。 戦後60年、未だにああだこうだと語学教育の手法論議のみが繰り返されているが、そんなの放っといて、若い人たちは習うより慣れろを実践しにさっさと外へ出掛ける時代になった。 「日本」も「日本語」も未だ会得しないままにだ。

今や、外国語=英語 の時代、これに必死に抵抗する 気概ある国 もあるが、私のように、世界中の愛犬家とのメールをやり取りしながら、ネット時代の 便利さ 楽しさ を享受している身から言うと、英語は間違いなく世界共通言語だ。 でも私はやっぱり日本が好きで、死ぬまで日本語の勉強をするつもりだ。

ここで、この記事にコメントを下さったお方のブログの 「英語ペラペラ幻想」 をお薦めしたい。 さすが現場でご苦労なさっているだけあって、すべてお見通しで、実に痛快だ。 更にその続編を読めばもう一枚ウロコが落ちる。 そして更に二枚目のウロコも落ちる。

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(#1) ; タイでは 「ここに幸あり」 は自国の歌だと思っている人がとても多い。

(#2) ; ペルシャ語の1から10までは、イエキ・ドー・セ・チャハール・パンジ・シシ・ハフト・ハシト・ノ・ダであるが、子供らはバンジの次がどうしてもキックになってしまうのだった。

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2006年3月26日 (日)

恩師の自分史

あまたの恩師の中に、私が卒業した後も、転職する際も、引退した時にも親身な心配をして下さった先生がおられた。 丁度2年前に91歳で亡くなられたK先生である。 その前半生の行政の場と、後半生の教育の場で、その分野でのテクノクラートの真実を実行され、多くの後輩を育てられた。 そして最後の日まで、日本の農業土木の行く末を具体的に案じておられたのだが、詳しくそのことを知っている教え子は少ない。

幸いなことにと言おうか、ご迷惑をかけっ放しだった私は、色々な場面で先生のお気持ちを聞かせて頂く機会に恵まれた。 ことに、ビルマ国でのサウスナウイン灌漑事業の実施設計業務(1983〜84)では、先生自身が専門メンバーとしてコンサルタント団長の私を助けて下さり、時に現地プロームの空の下での清貧なる晩餐を楽しませて頂いたものである。 先生は、普段の優しいお言葉とともに、学究的・技術的なテーマでは極めて精緻な姿勢を貫かれた。 その姿勢は老いてもなんら衰えることがなかった。

しかしとても穏健なご性格上、それらのお考えを振りかざすことなく、ただただ良き老人になって行かれた。 それに気付いていた教え子たちにけしかけられて出来上がったのが先生の自分史 「春秋叢記」 である。 また、それの編纂を兼ねて集められた膨大な文書を取り纏めてウェブサイトに載せたものが 「菊岡武男著作集」 である。 両方ともその完全な出来上がりの姿を、先生は見ることなく逝ってしまわれた。

しかし、先生が 「自分がやって来た研究や仕事について纏めておきたい」 と思っておられたことは確かである。 教え子たちがそれを提案した時は、既にかなり病弱になっておられたのだが、あの時のお顔の輝きと、直後からどしどしと送って下さった資料の多さでそれが分かる。 初めは戸惑ったのだが、結局はその物量の多さを楽しくこなすことが出来た。 パソコン・ワープロ・スキャナ・OCN・CDR/W・等々の IT のハード・ソフトのお陰である。

「ほんとに便利になったんだなー・・」、資料はどれだけ出てもいいのですよ・・との教え子の説明を聞きながら、とても嬉しそうに安心されたお顔が忘れられない。

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2006年3月21日 (火)

クルド兵とキャップの水

今から33年前、私はイラク北部の山岳地帯でダムサイトの踏査をした。 あのサッダーム・フセインが国軍司令官になった年である。 踏査の目的はチグリス河の支流に予定されたダム建設計画のコンサルタント業務の見積もりのためであった。 指名された企業8社の内、日本は我々だけで他は東欧諸国やイラクの企業だったし、現地に入ったのも最後のようだったので勝ち目は無かった。 が、イランの現場帰りの私は34歳、元気一杯だった。

その時初めて、所轄の灌漑事務所のあるモスル市の地名が「モスリン」と言う布の語源だと知ったのだが、目的地はそこよりチグリス本流を離れて車で数時間、クルド人自治区の真っ只中であった。 峡谷をはるか下方に望む尾根に立てば、更に上流に展開するザグロスの山々の向こうはイランであった。 そこは素晴らしいダム適地だと思われ、勇んだ私は高低差数百メートルの急な崖を下って谷底まで降りることにした。

上司の日本人2人とイラク人アテンダントを上に残して、私にはクルド人の若い兵士が二人付いてくれた。 谷底近くは更に急な崖になっていて水の流れに近づくことが出来なかったが、踏査の目的は達した。 岩の上で一服しようとザックを探ったら、水筒の蓋が緩んでしまっていて、残っていた水はカメラレンズの蓋に注いで丁度3杯分だけだった。 それを3人で分けたのである。 結局私は、帰りの登りで脱水症状になり、迎えのロバに乗せられることになってしまった。 その時に口に入れてもらった、青いぶどうの実の清冽な味が忘れられない。 二人がロバを引きながら 押しながら、私のために摘んでくれたのだ。

khajilgomel クルド人嫌いのフセインは、あの年から6年後に大統領になり、それから24年後にその政権に対して米英がイラク攻撃を開始した。 それから昨日で3年、戦死した米兵の数2千3百も痛ましいが、イラク人の死者は3万人を越えるという。 生きているのなら共に53歳、あのクルド兵達は今どうしているのだろう?。 衛星写真を見ると、そのダムの現場に機械や人の影が無い。 工事は途中で止まったままのようだ。

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2006年2月26日 (日)

マルコスの遺体

今朝の新聞に、アロヨ大統領の退陣を求めるフィリピンの首都マニラの市民の写真と、あのマルコス元大統領の遺体の写真とが載っていた。 20年間の独裁政治で巨大な蓄財をした彼が民衆に追われるように国を脱出してから更に20年も経っていて、しかも彼がハワイで死亡したのは脱出後数年のことだった筈だが。 ・・なんと、彼は生まれ故郷のイロコスノルテ州バタックでガラスケースの中に横たわっているのだという。 (バタックは州都ラオアグに近い小さな町である)

その理由は、国民英雄墓地への埋葬を希望するマルコス家に対して比国政府がOKを出さないからである。 スイスの銀行に預託した蓄財が、はっきりした分だけでも400億円相当で、さらにその数十倍も何処かに隠されているらしいという、そのような人物(の遺体)が未だにこの地上に残っているのは何故だろうか。 レイテ島の地滑り被災地をハイヒールで訪れた、あのイメルダ夫人のシタタカサのゆえのみなどとはとても思えないのだが。

ilocosnorte マ家を支援して「マルコスは英雄であった」 と署名をしたのは約百万人だという。 この数字を見て、彼がまさに独裁者であった頃の彼の地を思い出す。 私は、1978年と1980年とで述べ4ヶ月、イロコスノルテ総合灌漑計画のダム担当としてJICAによる技術協力に参画した。 右の写真の中で、上部の5本の川が集まって流下する地域がイロコスノルテ州の田園地帯で、計画は、そこの水不足を補うべく山脈の反対側のティネグ川にパルシグアンダムを造って長大なトンネルで導水しようとするものであった。

そのダムサイト踏査に入るべく、該地のアブラ州都バンゲットに知事を表敬した時である。 「アブラはたったの20万人、だがイロカノ100万人のために我がティネグの水をやる訳にはいかない!」 と、巨体で酋長のような風貌の反マルコス的な知事に一喝されたことを思い出す。 飛ぶ鳥を落とす勢いの大統領の威光も、山中の民衆には通じていないのだなあと感じたものだ。 彼の国の自由度は凄いと思う。 ピープルズパワーもあれば、お腹が脹らんだ小さな独裁者もいっぱい居る。

写真で見る通り、あのダム事業は実現していない。 それで良かったような、寂しいような気持ちである。

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2006年2月22日 (水)

私論茶経(1)= 紅茶の効能

「茶経」とは中国唐代の文人陸羽(733-803)が遺した茶に関する不朽の聖典のことである。 この書名を記事のタイトルに使うことは、中国茶を識る人々に叱られても仕方ないことだが、今回の題意は「茶についての私の思い」に過ぎない。 実は、2004年の春に、次男が中国茶の喫茶店を開業したのだが、そのホームページ作りを手伝いながら関係の書物を沢山読んだお陰で、この書名を知ったのである。 もちろん原著は読んでいないし読めない。陸羽さん、許して下さい。

だから初めから、「茶経」には書いてなかったことを書く。 先ずは紅茶の効能についてである。 実は紅茶もれっきとした中国茶なのである。 が、それが登場したのは17世紀中頃というから陸羽さんは知らない訳だ。 それより今日、私が言いたいのは「紅茶は便秘を直すのか?、それとも便秘を起こすのか?」と言う事である。 変なテーマだが、私の長年の疑問なのだ。 少なくとも、我が家では後者の方を信じている(即ち、タンニンパワー信奉派な)のだが・・。

私は、何度も海外に滞在したが、何でも美味しく食べたので、よく下痢をした。その時に先ず試したのが熱い紅茶であった。 これでほとんど治った。持参した抗生物質に手を出すことは全く無かった。 有難いことに、紅茶はどんなに貧しい途上国にも必ずあった。 唯一、ビルマの田園地帯を踏査していてヤラレた時に、それが入手出来なかったが、その時は農家の手作りの熱ーい番茶を頂いてそれが効いた。

ところが今の日本で、紅茶のウンチク本を読むとそのほとんどが「便秘の解消に良い」とか「ダイエットに良い」と書いてある。 インターネットでもそういう例がほとんどで、逆に「タンニンが含まれているから便秘を起こす、又は下痢を治す」と言っているのは、検索結果の上位100の内3つのサイトしかなかった。 それも、薬理学的なサイトか、タンニン専門家か、化粧品会社の関連医さん辺りが言っているだけだ。 多分、便秘解消派も促進派も(その背景となっている条件の下では)本当のことを言っているのであろう。 ところが、その背景(とか飲用の条件)が一般読者には良く伝わっていない。

狭い範囲での一事実に過ぎないことが、とかく広ーい世界の真実としてショミンに流布されてしまうようだが、紅茶の効能もその例だと思う。

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2006年2月 9日 (木)

ピンマナ遷都

ブッシュ米大統領は先週の一般教書演説で、当面の施政方針として外交・安保では「圧制の終結」を長期的な課題とし、世界でまだ民主化していない国の例として、シリア、ビルマ、ジンバブエ、北朝鮮、イランを挙げた。 ミヤンマーのことを敢えてビルマと呼んだのは、1989年に不意に国名を変えてしまった現軍事政権を認めたくないという心からであろう。

演説の数日前、世界中の人権擁護団体からのデータに基づいて「パレード誌による世界の独裁者ワーストテン」が発表されているが、そこでは第3位に「ビルマ(ミヤンマー)のタン・シュエ議長」を挙げてその「罪状」を並べている。 その中には、「120年の歴史を持つラングーン(ヤンゴン)から394Kmの僻地ピンマナへの首都移転を2日の予告だけで決めた」とある。

ピンマナに決めた理由については、軍事的に有利な立地だという見方が多い。 が、ジェット・ロケットの時代の今あまり実感が沸かない。 ますます孤立化を深める該国の為政者の考えは一体何なのだろう?。  ピンマナという町はかって日本軍の司令部がおかれた所だという。 もちろんそれは関係ないだろう。 でも、今、私は一人の大先輩K氏を思い出す。

Pyinmana 1975年頃からの社会主義共和国化が進む中、87年には国連から最貧国と認定されたが、88年の軍事クーデターで独裁的政権が生まれると欧米諸国からの支援は止まった。 しかし日本は、深く静かに支援を続けて来たのである。 その一環としてのピンマナ一帯の灌漑事業のコンサルタントとして一人で現地に滞在したのがK氏である。 写真の右上寄りにあるのがそのピンマナダムだ。(クリックするとピンマナの町も見える)

彼は自分のプロジェクトを仕上げると、私が担当していたサウスナウイン灌漑事業の設計を手伝いにプロームまで駆け付けてくれた。 彼は今も「ビルマの農民たちの為に」現地に滞在している。 奥様もご一緒に・・。 連絡を取ることは容易ではないが、二人のお元気を祈るのみである。

注) ; 該国政府はこの地を Naypyidaw (ネーピードー) と名付けた。 英語で Royal City と言う意味である。

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2006年2月 6日 (月)

ダムエンジニア

私の専門は(資格上のカテゴリーで言えば)灌漑技術である。 もっと絞ると貯水施設の技術である。 海外の灌漑事業への技術援助では、他に、測量・農学・農業経済・地質・土質・導水施設・圃場・施工技術などの専門家が集合して一つのチームを作って出掛けた訳だ。 だから、遠い昔に、それをほとんど一人でやったという八田與一という人に感嘆せざるを得ない。

ところで、貯水施設の技術者のことを英語ではダムエンジニア Dam Engineer という。 私の海外出張用の名刺にはそう刷ってあった。 名刺はチームが先方の国に到着して間もなくは沢山消費する。 それについて、ある国で経験したとても苦い思い出がある。 その思い出は、そのままその国そのものの思い出になってしまった。

先方国のある役所で、上位の部署から順に挨拶をして回って行って最終段階になったころ、それは即ち、これから我々コンサルタントとの日常の折衝が行われる部署でのことである。 私の名刺を見て担当係官が発した言葉は 「オーッ!ユー アー デャム エンジニア!」・・。  その意味は、彼の皮肉っぽい顔に説明してもらわなくても直ぐに分かった。 "Dam" ではなくて "dumb" だったのである。

誇り高き彼が言いたかったことは 「我々の国には金が無い。 が、ダムの歴史は君の国より古いし、君の国の最大級のダムを10個集めてもわが国のダム1つの方が大きい。 技術援助なんか要らんから金だけ持って来てくれ・・」 ということだったと思う。

その時の私達の立場は、日本からの技術援助業務ではなくて、ある国際金融機関からの派遣調査業務だったから、相手もついそんな態度になってしまったのであろう。 が、私にはこの思い出がその国の印象の全てに覆いかぶさって離れない。 確かに、高い誇りが前面に出てしまう国と、奥ゆかしく保持している国と・・、国も人も色々であった。

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2006年2月 1日 (水)

砂漠に消える大河

miankangi アフガニスタン第2の都市カンダハールを流れるヒルマンド川は西に流れてイラン国境で消える。流れが豊富な年は消えずに広大な湖水となっていた。しかし現在はアフガン国内のダムで止められるので、このヒルマンド湖は長年消えたままだ。かっての洪水期には、この写真中央のザボールの町を中心にして反時計回りに水が溜まって行ったのだ。今見えるのはその干上がった跡で、白いのは塩分だ。その中、Kuh-i-Khaje(クエハジェ)という小山が見えるが、これだけはいつも湖上に頭を出していた。

この写真の視点位置は上空約14.9Kmであり、右端を東京駅の位置だとすれば左端は静岡駅の位置に相当する。シスタン平野の広さとヒルマンド湖の大きさを想像してほしい。

私は1971から1973にかけてイランに赴任し、始めの3ヶ月はこのザボールに宿泊して、灌漑事業のための測量とレイアウトをした。当時のイラン政府(脱イスラム的王政)は欧米や日本のコンサルタントを雇って、このシスタン・バルチスタンの地の遠い昔の緑を取り戻すという大事業に取り組んだのである。中央やや下に貯水池群が見えるのはその成果(チャヒニメ湖)であるが、4つに見えるのは水が十分でないために浅くなってしまったからであろう。現在それらが周辺を潤しているような気配は残念ながら無い。

当時私たちが計画した水路は導水・排水合わせて約650Kmだが、この衛星写真を拡大してみると、それらが干上がった痕跡らしき幾つかの線が見える。驚いたことに私の記憶の範囲よりもっと広く線の痕跡が見える。太古の昔から100年ほど前迄はそれほどに緑の沃野であったのだ。

あのハードボイルド作家の生島治郎が描くように、灼熱の砂漠の午後は猛烈な風が吹き、遠大な歴史までも吹き飛ばす。 ここが、かってはとても豊かな水と緑の大平原だったこと、シルクロードの西域南道終着点だったこと・・、あのチムールが戦い敗れたところ・・、それを知っているのはその孤高な岩山、クエハジェ、もうおまえだけかも・・・。 

そんな不毛の地を東から西へ多くのアフガン難民が歩いたのはつい最近のことである。

( 生島治郎著「汗血流るる果てに」 のクライマックスで主人公の筧を助けたエンジニア松尾は、私共の数年後にその灌漑事業の工事監理をした後輩がモデルになっている。もちろん、筧という人物は実在しない。)

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2006年1月27日 (金)

南国のチョコレート

capayas 昨日の記事にある「フィリピンでの技術移転」の成果として比国灌漑庁の若い技術者たちに安定計算をやらせたダム第1号はボホール島にある。はたして現在うまく湛水しているだろうかと、GoogleEarth を起動してみたら、見事に雲間から現われたのでとても感動した。右の写真をクリックするとその衛星写真が現われる。

このダムは国道の端に作られた農業用の溜め池であるが、近くの町の貴重な生活用水になっている筈だ。筈だと言うのは、この施設は日本の無償援助で出来たものなので、本来の目的外に使うのは不都合だと言われそうだからだ。近くの町とは港町ウバイのことで、写真上部に見える。この地名は、ボホール島の特産品であるウベ芋(有名なアイスクリームの原料。紫芋の仲間か?)の語源という人がいるが真偽は知らない。

ちなみに、今「ボホール」を検索すると各種のサイトがヒットする。日本人のもあるが、多くは海辺のリゾートの話が多い。が、世界でボホールにしか無いものを二つ挙げておかねばならない。それは、あの可愛いメガネザル不思議な小山群のチョコレートヒル(ズ)である。

技術援助の仕事で滞在した時(1985)、私達コンサルタントチームの宿は一つのチョコレートヒルの頂上にある簡素なロッジであった。周りの山々は、乾期には草が枯れてチョコレート色になると言われ期待していたが、その年は雨が多かったせいなのか、あの緑の豊かなオッパイ群が変色したのは焼畑耕作からの延焼のおかげで、色はかなり苦いチョコレートのそれであった。以来、島の農業技術も向上した筈だから、焼畑はもう見られないだろう。

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2006年1月26日 (木)

フィリピンでの技術移転

私の海外勤務の回数はフィリピンが一番多い。記録を見ると、1978年のイロコスノルテから1993年のボホールまで延べ11回、年齢で言えば39歳から54歳までであった。一般に海外では日本人は実際の歳よりかなり若く見えるらしい。だから、比国灌漑庁の若い技術者諸君とはいつも仲良しになれた。他の発展途上国の時とは違う「心からの仲良し」になれたのである。それは比国民特有のホスピタリティーのお陰かも知れない。

私の実際の年齢を知り、細かい図面や文字を書くことが難儀だと知ると、カウンターパート(相手国の担当技術者)の誰もが進んで私の手足になってくれた。早くから書痙の症状があった私には本当に嬉しい環境であった。だから、彼らに役立つような技術移転をして感謝の気持ちを遺したくなった。

それが、比国でこれから増えるであろう土堰堤用のダム安定計算プログラムである。これは、パソコン時代以前のポケットコンピュータにBASIC言語で私自身がプログラムしたもので、大きさや築堤材の種類を問わないフィルダム汎用式だった。彼らは私が一年余も掛けて作ったそのロジックを数日で解読して、巨大な紙面にチャート(流れ図)として描いた。

こうなればしめたもので、難なくこれを、当時灌漑庁の特別室にあったタンディのTRS-80に移し変えた。その出来は、データの入力も結果の出力も(彼らのセンスが発揮された)スマートな体裁で、のろくて貧相な出力の我がポケット機の比ではなく、越された私は、なのに嬉しくてならなかった。

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2006年1月24日 (火)

衛星写真 (2)

southnwn 一昨日の拙ブログでミヤンマーでの技術指導の思い出を書いた。漏水で枯渇してしまったダムを診断し解決策を提案した話であるが、今日はその後の様子を知りたくて例の GoogleEarth を起動してみた。その結果がここに添付した写真である(クリックすると拡大する)。その鮮明さは驚くほどである。内緒だが、当時私たちが密○焼酎を買いに行った集落も見える。

ここには、私が関った三つのダム湖が写っている。90年代前半に漏水問題を起こしたのは Shwelle Dam といい、画面左に小さく見える。このように小さいものはローカルな技術で築造するので問題が起こりがちなのだ。でも後日、私の提案を尊重してくれたのであろう・・、この写真ではちゃんと水が溜まっているではないか。冥利に尽きる嬉しさだ。

更に嬉しいのは、上部に満々と水を貯めている二つのダムの姿である。これは、私が(上記の技術指導より12年前に)実施設計のコンサルタントの団長をしたところのサウスナウイン灌漑事業のメインダム(写真右、総貯水量=3.54億トン)と取水ダムである。この写真が24,000mの上空から眺めたものだと思えば湖水の大きさが分かるだろう(中央の鋭利な曲線が長さ約5Kmの堰堤である)。更に拡大すると取水ダムから下流の平野に向かって行く(毎秒33トンの)幹線水路が見える(が、このブログ上では無理だ)。

幹線水路は約50Km、支線・派線は280余Km、これらが24,000ヘクタールの水田を潤している筈だ。どうやらこの写真は乾季に撮られたもののようで田園の風景は見えないが、居ながらにしてこのような貴重な情報が得られる時代まで生きたことをしみじみと有難く思う。

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2006年1月22日 (日)

ミヤンマーのインターネット

前に「ビルマのパソコン」という題で書いたが、今度は国名がミヤンマー連邦と変わって(1989)から後の思い出である。日本は、その頃から孤立化を深めた該国に対して実は静かに技術援助を続行していた。1995年4月に私はその一環として、灌漑庁への短期専門家として派遣された。テーマは漏水のために枯渇してしまったダム湖の診断であった。

mynm954j その原因と対策についての講演の時、灌漑庁の講堂に最新のプロジェクターがちゃんと準備してあったことに感激したものだが、それは日本からの無償援助の研究施設の備品であった。そこには何台かのパソコンも入っていた。でも、会場での質問の中に、ネットでなら直ぐに調べて答えられるのに・・というものがあった。が、あちらでもインターネット環境は未だ国民一般のものではなかった。

私はその夜、ホテルからバンコクのノード(パソコン通信のアクセスポイント)に電話を掛けてもらって、入国の時に唯の計算機として持ち込んでいたオアシス・ポケット3をつないだ。そこからニフティサーブからのゲートウエイ接続により米国のインフォキュー(INFOCUE)に入って科学技術の情報検索をしようと試みた訳だ。以前バンコク滞在中によく利用したのだが、その夜は結局つながらなかった。

myanmarf小さいけど新しかったそのホテルのボーイ君たちが、珍しそうにポケット3を眺めながら何度も電話を繋ぎなおしてくれたことを思い出す。彼らは元気だろうか?、現在の該国のネット事情はどんな風になっているのだろうか? とても懐かしい国である。

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2006年1月11日 (水)

衛星写真

maekuang この写真はタイ国チェンマイ市東方にあるメクアンダムの衛星画像である。今から25年前、国際協力の技術援助業務で実施設計を担当したダムである。もとより当時はこのダム湖の姿は図面上でしか想像することが出来なかったものだ。

それが、昨年の秋にグーグル社が GoogleEarth というサービスを始めたので、早速無料版をダウンロードして使ってみて、簡単にしかもかなり鮮明に見る事が出来て感動してしまった。

これは、ネット版地球儀と言ったところだが、そのスケールの凄さには言葉も無いくらいだ。鮮明すぎて色々な国の政府から治安上の懸念が出ているとかで、我が家などは庭木の一本一本まで見えてしまう。盗られそうなものは何も無いのでいいが。

この写真の右下に国道が走っている。チェンマイからチェンライ経由であのゴールデントライアングルに行ける道だ。実は6年前にもここを走った。大学同級の還暦記念旅行でである。

バスの車窓から長大な堰堤を遠望しながら、昔の我が仕事を旧友達に説明したのだが、ふと気付くと隣席の妻が涙を拭いていた。涙と言えば、あの頃は「家庭を顧みずに海外に出掛けるなんて!」とよく泣かれたものだ。

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2006年1月 2日 (月)

ビルマのパソコン

これはミヤンマーが未だビルマと呼ばれていたころの思い出である。私は今から二昔余も前の1983年の4月から丁度1年間、二つのダムと2万4千ヘクタールの灌漑用水路の設計をするコンサルタントの団長として彼の国に滞在した。

当時の土木設計の世界は、IBM等の大型電子計算機を本社に置いて技術計算をしていたので、現在のパソコンのようにプロジェクトの現地に持っていって使えるような機器は未だ一般的ではなかった。ただ、それより10年ほど前にあのビル・ゲイツ氏達が世に出したMS-BASICというコンピュータ言語が汎用されるようになって、これを搭載した小型の計算機が出回り始めた頃である。メーカーはこれを「パーソナルコンピュータ」と丁寧に呼んで宣伝したものだ。

ダムの構造設計などの大きな計算は本社でやってもらうにせよ、日常の技術計算や事務処理については是非現場でやるべきだと考えた私は早速、ビルマ政府の事前の了解を得てそれに相応しいものを探した。こういう機器は、業務が終わればそのまま現地の機関に引き渡すので日本語仕様では駄目であったが、幸い当時は純アメリカ製が調達出来たのである。

それがタンディラジオシャック社のTRS-80であった。その性能を見ると、下記の通りだったようで、現今のパソコンと比較すると、まことに隔世の感がある。

trs80 CPU : Z-80 (1.7MHz)
ROM : 12 KB
RAM : 16 KB
Grpaphic : 280x192 Dot Color

これを超貴重品扱いで現地まで運んで、夏季には40℃を超えるので、当時のビルマではこれまた超貴重品だったエアコンを現地調達して、コンサルタントのキャンプ内に特別室を作ってもらった。

聞くところによれば、このTRS-80はビルマに初めて来たパーソナルコンピューター2台の内の一つであって、あとの一つはあのネ・ウィン将軍(1911-2002)が取り寄せたものだったそうである。高齢な日本人ならその名をよく知っている筈だが、当時すでに70歳を超えていてなお国軍と政党と行政の最高権力者として、このような当時最新の情報機器をどのように使おうとしたのだろうか。

ちなみに、彼と共に日本軍の軍事訓練を受け、共に反英・ビルマ独立のために闘い、彼より先に将軍になったアウンサン(1915ー1947)のその娘、アウンサンスーチーさんは現在ミヤンマー政府によって軟禁の身である。

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2006年1月 1日 (日)

「おじんのIT今昔」とは

私は現在66歳、パソコン暦は1980年の日立ベーシックマスター以来25年、インターネット暦は1988年のコミネット仙台以来18年と、丁度日本におけるIT時代の進展とともに生きて来た。

既に現役を退いて数年、自分が今ITの下での生活にどっぷりと浸かっていることに気がつき、それが同級の友達よりはかなり極端であることに気がついた。でも、それを自慢する気はない。むしろ、これぞ「年寄りオタク」なのではと自問することもある。

私はITの専門家ではなく、本業を土木技術者とする一介のITユーザーだったに過ぎない。それもかなり生真面目で頑固なユーザーだったと思う。そして、今までの仕事や趣味上でのITへの関わりを表せば、それはそのまま「後期自分史」になるのではと思う。

この四半世紀のITの進展はまことに目まぐるしく、ユーザーの側から言っても実に様々な出会いや苦楽があった。これから、それらを思いつくままに書き残して行きたい。IT以外の話が出るかも知れないが、ブログというものがその「思いつくままに書く場」として役に立つことを期待しながら・・。

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