ミヤンマー

2007年9月30日 (日)

ミヤンマーと日本

Myanmar07 緊迫したミヤンマーでの犠牲者の中に日本人も含まれることになってしまった。 日本政府は、真相の究明と関係者の処罰をミヤンマー政府に求めているが、「関係者」 とは撃った兵士やその上官らのみを指すのでは勿論無い。 それは 「ミヤンマー政府」 そのものだと言わねばならない。 それが 「軍政」 というものなのだ。 少数民族を弾圧し、総選挙の結果を無視し、唐突に遷都 を行い、無謀な物価のコントロールを行う、その為政はとても異常なものである。

そこはしかし、私にとってとても懐かしい国である。 あの国 のあの人々が、なぜあのような政体のままを許して過ごして来たのであろうか?。 既に彼の国を逃れ出ている人々は、故国を正すために 「外国からの援助を止めろ!」 と叫ぶ。 だがこの訴えに私は、昔 (1983 及び 1995) 農業開発の技術援助に参画した一人として、複雑な思いに陥る。 この時に食料や医療や教育関係の援助まで止めていいのかと思うからだ。 たとえ援助を止めて国土が枯れても、結局困窮するのは一般国民だけであって、軍人は決して困らない。 それが 「軍政」 というものなのだ。

悪政を正すべくクーデターが行われても、そのまま軍政が長引けば、それはまた悪政になるのだ。 そんな自明なことを考えながら、思いは彼の国の軍政の繰り返しに至る。 大戦中に日本軍の支援を得て英領からの独立を期した アウン・サン(1942) 。 その後独立 (1948) して連邦となるも、少数民族や共産勢力等による混乱が続いて、それを クーデター(1962) で収めてビルマ式社会主義を標榜した ネ・ウィン 。 それが失敗して1988年の学生暴動などの不安定化を招き、それを再度 クーデター(同年) で収めた ソー・マウン 。 以後社会主義経済を放棄して市場経済化を謳うも、総選挙(1990) の大敗を無視したまま、国軍による圧政は タン・シュエ (1992) に引き継がれて今に至る。 言葉は同じだが、隣国 タイでのクーデター とはその動機も事後の様相も全く違う。

その間、日本の姿勢は謂わば「仏教的」とでも言おうか、該国に対する援助は深く静かに行われて来ている。 それは日本企業群の都合だと言う見方もある。 対して、米国は1991年から対ミャンマ-経済制裁に入っており欧州各国もほぼ同様である。 制裁に反対している中・露・印などの周辺国はシタタカな計算をしているのであろう。 では、これからの日本は如何に対処するべきか?。実は、アウン・サン も ネ・ウィン もかっての日本陸軍「南機関」の下で特訓を受けた軍人であり、当時の日本の軍歌は今も該国軍で演奏されているという。 しかし、日本はいま平和国家であり、経済大国の一つである。 だから、日本及び日本人は、如何なる手段を以って、現今のミヤンマーに対処するべきか?・・、着実に 慎重に しかし早急に・・

注1 ; 国民に「ビルマ建国の父」と尊敬される アウン・サン は英国からの独立を果たす前年の1947年に暗殺された。その時2歳であった彼の長女が、現在軍政によって軟禁されている アウンサンスーチー女史 である。
注2 ; 左上の画像は、緊迫の様子を伝える「ビルマ民主の声」のサイト(ノルウェー発)である。昨日現在では、一般のネット接続が切られてしまったので該国からの発信は不可能になってしまったが、大国の大使館や企業の出先などでは衛星や無線を通じてインターネットに繋ぐことが出来ている筈である。
注3 ; ビルマ(今のミヤンマー)に関わる私の思い出は幾つもある。右枠のカテゴリーで「ミヤンマー」をクリックすればその全てが並んで現れる。

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2007年1月27日 (土)

ビルマの秘酒"泡盛"

実に久しぶりに秘蔵の泡盛を飲んだ。ウィスキー が切れていたからで、しかも月末で財務省の財布の紐がきつかったからである。 それに、好きな日本酒を頂くと直ぐ眠くなるし、大好きな芋焼酎も毎晩では口が倦んでくる。 代わりに出してきたのが、あのアルコール分 60%  の与那国の花酒の一つ 「どなん」 である。 既に開封してあったものだから アルコール分 が幾らか揮発していたのであろう、かえってとても飲みやすく、香りも甘さも増していた。 そして、おやっ! これは、あの酒と同じだ! と、20数年前のビルマ(現在のミャンマー)の ○○ワイン を思い出したのだ。 先ず口の中を突く、あのやや鉱物的な風味が同じだと気が付いたのだ。

Promedinner それは、1983、84年と該国の中央部にあるプローム(現在のピヤイ:Pye) に一年間滞在して、サウスナウイン灌漑事業 の実施設計を担当した時の思い出である。 当時は該国産の マンダレービール の入手もままならず、はるばる タイ や 中国 との国境を超えて来る 密輸ビール(日本製) はとても貴重品で、だから、十数人の団員のための毎晩餐の アルコール の調達は団長の私の大きな仕事であった。 そんな中で知ったのが、水源ダムの建設予定地近くの集落で密かに造られているという ○○ワイン のことであった。 ワイン(=醸造酒) とは言うが、それは明らかに 米焼酎(=蒸留酒) であって、生憎その英語 (arac) をみんな知らなかったからで、現地雇いの料理人をして買いに走らせるにはそう言うしかなかったのだ。

今日改めてネットで調べてみて、それらの類似性を納得した。 すなわち、琉球泡盛の原料の米は、日本酒のとは異なる インディカ米 であり、主に タイ産 の 砕米 が用いられると言う。 それは、日本の他の 焼酎(spirits) と違い、東欧から東南アジアにかけて 1,200年 も前から造られていて 「アラック」 と呼称される言わば蒸留酒の原型なのだそうだ。 だから、それが ビルマ の片田舎でも簡単に手に入った訳だ。

あのころ私たちは、これの水割りを飲みながら、「これはインパール戦線からの敗走日本兵が、かくまってくれた土地の人に、故郷を想いながら造り方を教えたものに違いない」 と・・・いつも神妙に味わったものだ。 それは間違いだった訳だが、当時、あちらの カウンターパート(相手国職員)氏 は、そうとも否とも言わないで話題を変えたものだ。 それは多分、それが正規に納税した「酒」ではなかったからだろう。 あの○○の集落は、今頃、どんなたたずまいなのであろうか。 空になった 「どなん」 の瓶からただよい出るあの ブランデー にも似た香りを慈しみながら、懐かしいかの地の今を想った。

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2006年7月26日 (水)

続 地上デジタル(時報は?)

地上デジタルテレビ放送では正規の「時報」をやっていない。 情報の伝送にタイムラグが生じているからだ。 テレビカメラやマイクロフォンが拾うのはあくまでもアナログ情報、末端のテレビやスピーカーから出るのもアナログ情報、その間をデジタル情報に変換してしかも圧縮して(末端では復元して)いるかららしい。 少ない資源(電波帯域)上に沢山の情報を流す、というデジタル放送の仕組みを知ればそういうタイムラグは自明のことなのだが、これを事前に承知しているユーザーは少なかろう。 私も地デジに変えて数日経ってから気がついて、ネットで勉強して分かったことだ。 でも、「時報」は一つの放送文化だったのだから、これが無くなると律儀な日本人は困る。 ソーラー電波の腕時計が売れる訳だ。

ここで思い出すのは、昔、途上国に滞在した時に経験したあちらの「時報」のアバウトさだ。 確かに、短波ラジオで受信したNHKの国際放送の時報とかなり時間差があった。 某国に1年居た時には、本社との連絡に、毎週定時に現地の郵便局に出掛けては国際電話を繋いでもらったものだが、日本側は秒の単位で待ち構えていてくれても、こちらの単位は数分とか数十分とかたまには数時間とかのアバウトさで、双方の日本人はイライラばかりを強いられたものだ。 時間にルーズな国の人々からは 「ニホンジンそんなにギリギリ何すんの?」 と言われるかも知れないが、確かにこれは「文化」だと思う。 その文化が日本の科学にも経済にも大きな支えとして効いているのだ。

だからやがては、地デジ対応テレビ=電波時計内蔵・連動 ということになるのだろう。 と言うのも、これも最近になって気が付いたことだが、私の愛車の時計が実に正確だなと思って説明書を調べたら、これも電波時計であった。

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2006年4月20日 (木)

ミリタリーマップ

今から206年前の昨日、当時 55才の伊能忠敬 (1745-1818) が蝦夷地の測量に出発した。 50歳の時に醸造や水運それに下総国佐原の役職等々から隠居し、江戸に出て測量と天文観測を学んだ後にである。 その意思たるや、そしてその成果(#1)たるや、測量士の端くれである私には尚のこと、彼がとてつもなく偉大なお方に思えるのだ。

それは11代将軍家斉の時代で、黒船の浦賀来航は未だ後 (1853) のことだが、既に 1792年には帝政ロシアのラクスマンが根室に入港し通商を求めていたから、幕府にとって蝦夷地の把握は緊要なことだったに違いない。 のみならず、伊能図の有用性は彼の死後も益々高くなり、幕末には英国艦隊がその小図を持ち帰り、日本陸軍は長くこれを基本の図としたという。 これらは関東大震災で全て焼失したと思われていた。

が、近年になって米国議会図書館や海上保安庁海洋情報部から 写本が発見された という。 そもそも地図とは国土を把握した図のこと。 だから今でも多くの国でこれの通称を 「ミリタリーマップ」 と言うのだ。 農業開発や水資源開発のための技術援助の仕事で海外に行くと、私達が先ずやったのは当該地域の地形図 (殆どの国で5万分の1の国土図のこと) を入手することであった。 行き先は決まって国防関係の役所だった。

しかし現在は、例えば日本では、国土の地図を司るのは軍人ではなく文人 (国土地理院) である。  更に今や地形の情報は、国毎の体制や都合を超えて、地球規模で、しかも無料で提供されている。 思うに、ITの時代とは物凄い時代なのだと思う。

Japan 注; (#1) をクリックすると現れるのは実際の日本の地形と伊能図のそれとを対比したもの。 その範囲を現在の GoogleEarth で見たものが右の写真である。(クリック→)

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2006年4月11日 (火)

私の外国語

私にはちゃんと喋れる外国語は無い。 最近は、「貴方の日本語もなんだかおかしいよ」と妻に言われる始末だ。 でも、現役時代に仕事で出掛けたのは10ヶ国を超えるし、その日数を足すと6年以上になる。 途上国での技術援助が主だったから相手国の人々とはもっぱら片言英語で話し、辞書を片手にレポートを書いた。 レポートは援助元の役所用に日本語でも書いたから、後で、「ここは両者間の意味が違うよ」と、語学の強い役人によく指摘されたものだ。 でもそれだけで、何故か技術の方を論評してくれた役人の記憶は無い。その頃既に日本のテクノクラートは消滅していたのだ。

それはさておき、今思うと惜しいことだが、折角滞在した国々の言葉を身に付けることは出来なかった。 が、業務以外の場での生活用語は否応無く使わねばならない。 それらで今になって思い出せる言葉は殆ど無いが、パーティーの余興用に懸命に覚えたそれぞれの国の歌が一つずつある。 比国の「貴方ゆえに(ダヒルサヨ)」、泰国の「ここに幸あり(#1)」、緬国の「片思い」などなどだが、それらを誰から教わったのかはもう記憶の外だし、歌詞の意味も正しくは覚えていない。

また、1971~73 にはイランのダム現場に家族で滞在したのだが、二人の子供達 (5歳と3歳) の方が ペルシャ語を早く覚えた (#2、mp3 : 650kb : 5分31秒)。 今はもう忘れてしまったのだろうが。

それにしても外国語を直ぐに覚えられる人は凄いと思う。 私の経験からも、自分を含めて日本人は外国語(英語)が確かに苦手だ。 戦後60年、未だにああだこうだと語学教育の手法論議のみが繰り返されているが、そんなの放っといて、若い人たちは習うより慣れろを実践しにさっさと外へ出掛ける時代になった。 「日本」も「日本語」も未だ会得しないままにだ。

今や、外国語=英語 の時代、これに必死に抵抗する 気概ある国 もあるが、私のように、世界中の愛犬家とのメールをやり取りしながら、ネット時代の 便利さ 楽しさ を享受している身から言うと、英語は間違いなく世界共通言語だ。 でも私はやっぱり日本が好きで、死ぬまで日本語の勉強をするつもりだ。

ここで、この記事にコメントを下さったお方のブログの 「英語ペラペラ幻想」 をお薦めしたい。 さすが現場でご苦労なさっているだけあって、すべてお見通しで、実に痛快だ。 更にその続編を読めばもう一枚ウロコが落ちる。 そして更に二枚目のウロコも落ちる。

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(#1) ; タイでは 「ここに幸あり」 は自国の歌だと思っている人がとても多い。

(#2) ; ペルシャ語の1から10までは、イエキ・ドー・セ・チャハール・パンジ・シシ・ハフト・ハシト・ノ・ダであるが、子供らはバンジの次がどうしてもキックになってしまうのだった。

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2006年3月27日 (月)

遥かなるインパール

kialbm03 「実は私の弟はインパールで亡くなったんさ・・」、昨日の記事で紹介したK先生は、1983年11月にビルマ国プロームの私共コンサルタントのキャンプに滞在された時に初めてこうおっしゃった。 私がインパールについて知っていたのは、そこで多くの日本兵が戦死したことと、ここを流れる大河イラワジの上流にあるらしいことくらいだった。 実はプロームの郊外の古いパゴダの下にも無名日本兵の墓標があった。 彼らはそのインパール作戦で散ったのであろうと、その郷愁のお気持ちと無念さとを想った。

次の日曜日、私逹は先生に同行して、その墓標を訪れ、周りの草刈をして、ほんにささやかな野の花を手向けた。 墓標に向かえば、その向こうに遥かなるインパールの空を見る思いがした。 でもあの3万人という戦死者は、実はインパールの地に於いて亡くなったのではなく、そこに攻め入る途中で、又は敗走する途中でほとんど餓死に近い戦死をしたのだと言う。

インパール・・、何故そんな奥地を攻めねばならなかったのか?。 Wikipedia によれば、そこは当時、アメリカや英国から中国の蒋介石軍への大量の兵器弾薬の輸送拠点であり、インドを植民地とする英軍の重要地点でもあったと言う。 知らなかったことだが、昔も今もインパールはインドの地なのである。

inphal 右の衛星写真には、左上にインパール(Inphal)、その下方に私たちが拝んだ墓標のあったプローム(Prome)、そのやや右上にミヤンマー国の新首都ピンマナ(Pyinmana)、その右方向にあのゴールデントライアングル、そのはるか右上に中国雲南の都の昆明(Kunming = 蒋介石が居た重慶への途中に当たる)がある。 計ってみると、傷ましい戦跡が周りに点在するというあの墓標から、彼らの目的地インパールまでは遥か 690Km の距離があったのである。

この記事を書くに当り、窪田様のサイトを発見し非常に参考になりました。有り難うございました。

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2006年3月26日 (日)

恩師の自分史

あまたの恩師の中に、私が卒業した後も、転職する際も、引退した時にも親身な心配をして下さった先生がおられた。 丁度2年前に91歳で亡くなられたK先生である。 その前半生の行政の場と、後半生の教育の場で、その分野でのテクノクラートの真実を実行され、多くの後輩を育てられた。 そして最後の日まで、日本の農業土木の行く末を具体的に案じておられたのだが、詳しくそのことを知っている教え子は少ない。

幸いなことにと言おうか、ご迷惑をかけっ放しだった私は、色々な場面で先生のお気持ちを聞かせて頂く機会に恵まれた。 ことに、ビルマ国でのサウスナウイン灌漑事業の実施設計業務(1983〜84)では、先生自身が専門メンバーとしてコンサルタント団長の私を助けて下さり、時に現地プロームの空の下での清貧なる晩餐を楽しませて頂いたものである。 先生は、普段の優しいお言葉とともに、学究的・技術的なテーマでは極めて精緻な姿勢を貫かれた。 その姿勢は老いてもなんら衰えることがなかった。

しかしとても穏健なご性格上、それらのお考えを振りかざすことなく、ただただ良き老人になって行かれた。 それに気付いていた教え子たちにけしかけられて出来上がったのが先生の自分史 「春秋叢記」 である。 また、それの編纂を兼ねて集められた膨大な文書を取り纏めてウェブサイトに載せたものが 「菊岡武男著作集」 である。 両方ともその完全な出来上がりの姿を、先生は見ることなく逝ってしまわれた。

しかし、先生が 「自分がやって来た研究や仕事について纏めておきたい」 と思っておられたことは確かである。 教え子たちがそれを提案した時は、既にかなり病弱になっておられたのだが、あの時のお顔の輝きと、直後からどしどしと送って下さった資料の多さでそれが分かる。 初めは戸惑ったのだが、結局はその物量の多さを楽しくこなすことが出来た。 パソコン・ワープロ・スキャナ・OCN・CDR/W・等々の IT のハード・ソフトのお陰である。

「ほんとに便利になったんだなー・・」、資料はどれだけ出てもいいのですよ・・との教え子の説明を聞きながら、とても嬉しそうに安心されたお顔が忘れられない。

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2006年2月22日 (水)

私論茶経(1)= 紅茶の効能

「茶経」とは中国唐代の文人陸羽(733-803)が遺した茶に関する不朽の聖典のことである。 この書名を記事のタイトルに使うことは、中国茶を識る人々に叱られても仕方ないことだが、今回の題意は「茶についての私の思い」に過ぎない。 実は、2004年の春に、次男が中国茶の喫茶店を開業したのだが、そのホームページ作りを手伝いながら関係の書物を沢山読んだお陰で、この書名を知ったのである。 もちろん原著は読んでいないし読めない。陸羽さん、許して下さい。

だから初めから、「茶経」には書いてなかったことを書く。 先ずは紅茶の効能についてである。 実は紅茶もれっきとした中国茶なのである。 が、それが登場したのは17世紀中頃というから陸羽さんは知らない訳だ。 それより今日、私が言いたいのは「紅茶は便秘を直すのか?、それとも便秘を起こすのか?」と言う事である。 変なテーマだが、私の長年の疑問なのだ。 少なくとも、我が家では後者の方を信じている(即ち、タンニンパワー信奉派な)のだが・・。

私は、何度も海外に滞在したが、何でも美味しく食べたので、よく下痢をした。その時に先ず試したのが熱い紅茶であった。 これでほとんど治った。持参した抗生物質に手を出すことは全く無かった。 有難いことに、紅茶はどんなに貧しい途上国にも必ずあった。 唯一、ビルマの田園地帯を踏査していてヤラレた時に、それが入手出来なかったが、その時は農家の手作りの熱ーい番茶を頂いてそれが効いた。

ところが今の日本で、紅茶のウンチク本を読むとそのほとんどが「便秘の解消に良い」とか「ダイエットに良い」と書いてある。 インターネットでもそういう例がほとんどで、逆に「タンニンが含まれているから便秘を起こす、又は下痢を治す」と言っているのは、検索結果の上位100の内3つのサイトしかなかった。 それも、薬理学的なサイトか、タンニン専門家か、化粧品会社の関連医さん辺りが言っているだけだ。 多分、便秘解消派も促進派も(その背景となっている条件の下では)本当のことを言っているのであろう。 ところが、その背景(とか飲用の条件)が一般読者には良く伝わっていない。

狭い範囲での一事実に過ぎないことが、とかく広ーい世界の真実としてショミンに流布されてしまうようだが、紅茶の効能もその例だと思う。

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2006年2月 9日 (木)

ピンマナ遷都

ブッシュ米大統領は先週の一般教書演説で、当面の施政方針として外交・安保では「圧制の終結」を長期的な課題とし、世界でまだ民主化していない国の例として、シリア、ビルマ、ジンバブエ、北朝鮮、イランを挙げた。 ミヤンマーのことを敢えてビルマと呼んだのは、1989年に不意に国名を変えてしまった現軍事政権を認めたくないという心からであろう。

演説の数日前、世界中の人権擁護団体からのデータに基づいて「パレード誌による世界の独裁者ワーストテン」が発表されているが、そこでは第3位に「ビルマ(ミヤンマー)のタン・シュエ議長」を挙げてその「罪状」を並べている。 その中には、「120年の歴史を持つラングーン(ヤンゴン)から394Kmの僻地ピンマナへの首都移転を2日の予告だけで決めた」とある。

ピンマナに決めた理由については、軍事的に有利な立地だという見方が多い。 が、ジェット・ロケットの時代の今あまり実感が沸かない。 ますます孤立化を深める該国の為政者の考えは一体何なのだろう?。  ピンマナという町はかって日本軍の司令部がおかれた所だという。 もちろんそれは関係ないだろう。 でも、今、私は一人の大先輩K氏を思い出す。

Pyinmana 1975年頃からの社会主義共和国化が進む中、87年には国連から最貧国と認定されたが、88年の軍事クーデターで独裁的政権が生まれると欧米諸国からの支援は止まった。 しかし日本は、深く静かに支援を続けて来たのである。 その一環としてのピンマナ一帯の灌漑事業のコンサルタントとして一人で現地に滞在したのがK氏である。 写真の右上寄りにあるのがそのピンマナダムだ。(クリックするとピンマナの町も見える)

彼は自分のプロジェクトを仕上げると、私が担当していたサウスナウイン灌漑事業の設計を手伝いにプロームまで駆け付けてくれた。 彼は今も「ビルマの農民たちの為に」現地に滞在している。 奥様もご一緒に・・。 連絡を取ることは容易ではないが、二人のお元気を祈るのみである。

注) ; 該国政府はこの地を Naypyidaw (ネーピードー) と名付けた。 英語で Royal City と言う意味である。

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2006年1月24日 (火)

衛星写真 (2)

southnwn 一昨日の拙ブログでミヤンマーでの技術指導の思い出を書いた。漏水で枯渇してしまったダムを診断し解決策を提案した話であるが、今日はその後の様子を知りたくて例の GoogleEarth を起動してみた。その結果がここに添付した写真である(クリックすると拡大する)。その鮮明さは驚くほどである。内緒だが、当時私たちが密○焼酎を買いに行った集落も見える。

ここには、私が関った三つのダム湖が写っている。90年代前半に漏水問題を起こしたのは Shwelle Dam といい、画面左に小さく見える。このように小さいものはローカルな技術で築造するので問題が起こりがちなのだ。でも後日、私の提案を尊重してくれたのであろう・・、この写真ではちゃんと水が溜まっているではないか。冥利に尽きる嬉しさだ。

更に嬉しいのは、上部に満々と水を貯めている二つのダムの姿である。これは、私が(上記の技術指導より12年前に)実施設計のコンサルタントの団長をしたところのサウスナウイン灌漑事業のメインダム(写真右、総貯水量=3.54億トン)と取水ダムである。この写真が24,000mの上空から眺めたものだと思えば湖水の大きさが分かるだろう(中央の鋭利な曲線が長さ約5Kmの堰堤である)。更に拡大すると取水ダムから下流の平野に向かって行く(毎秒33トンの)幹線水路が見える(が、このブログ上では無理だ)。

幹線水路は約50Km、支線・派線は280余Km、これらが24,000ヘクタールの水田を潤している筈だ。どうやらこの写真は乾季に撮られたもののようで田園の風景は見えないが、居ながらにしてこのような貴重な情報が得られる時代まで生きたことをしみじみと有難く思う。

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2006年1月22日 (日)

ミヤンマーのインターネット

前に「ビルマのパソコン」という題で書いたが、今度は国名がミヤンマー連邦と変わって(1989)から後の思い出である。日本は、その頃から孤立化を深めた該国に対して実は静かに技術援助を続行していた。1995年4月に私はその一環として、灌漑庁への短期専門家として派遣された。テーマは漏水のために枯渇してしまったダム湖の診断であった。

mynm954j その原因と対策についての講演の時、灌漑庁の講堂に最新のプロジェクターがちゃんと準備してあったことに感激したものだが、それは日本からの無償援助の研究施設の備品であった。そこには何台かのパソコンも入っていた。でも、会場での質問の中に、ネットでなら直ぐに調べて答えられるのに・・というものがあった。が、あちらでもインターネット環境は未だ国民一般のものではなかった。

私はその夜、ホテルからバンコクのノード(パソコン通信のアクセスポイント)に電話を掛けてもらって、入国の時に唯の計算機として持ち込んでいたオアシス・ポケット3をつないだ。そこからニフティサーブからのゲートウエイ接続により米国のインフォキュー(INFOCUE)に入って科学技術の情報検索をしようと試みた訳だ。以前バンコク滞在中によく利用したのだが、その夜は結局つながらなかった。

myanmarf小さいけど新しかったそのホテルのボーイ君たちが、珍しそうにポケット3を眺めながら何度も電話を繋ぎなおしてくれたことを思い出す。彼らは元気だろうか?、現在の該国のネット事情はどんな風になっているのだろうか? とても懐かしい国である。

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2006年1月 2日 (月)

ビルマのパソコン

これはミヤンマーが未だビルマと呼ばれていたころの思い出である。私は今から二昔余も前の1983年の4月から丁度1年間、二つのダムと2万4千ヘクタールの灌漑用水路の設計をするコンサルタントの団長として彼の国に滞在した。

当時の土木設計の世界は、IBM等の大型電子計算機を本社に置いて技術計算をしていたので、現在のパソコンのようにプロジェクトの現地に持っていって使えるような機器は未だ一般的ではなかった。ただ、それより10年ほど前にあのビル・ゲイツ氏達が世に出したMS-BASICというコンピュータ言語が汎用されるようになって、これを搭載した小型の計算機が出回り始めた頃である。メーカーはこれを「パーソナルコンピュータ」と丁寧に呼んで宣伝したものだ。

ダムの構造設計などの大きな計算は本社でやってもらうにせよ、日常の技術計算や事務処理については是非現場でやるべきだと考えた私は早速、ビルマ政府の事前の了解を得てそれに相応しいものを探した。こういう機器は、業務が終わればそのまま現地の機関に引き渡すので日本語仕様では駄目であったが、幸い当時は純アメリカ製が調達出来たのである。

それがタンディラジオシャック社のTRS-80であった。その性能を見ると、下記の通りだったようで、現今のパソコンと比較すると、まことに隔世の感がある。

trs80 CPU : Z-80 (1.7MHz)
ROM : 12 KB
RAM : 16 KB
Grpaphic : 280x192 Dot Color

これを超貴重品扱いで現地まで運んで、夏季には40℃を超えるので、当時のビルマではこれまた超貴重品だったエアコンを現地調達して、コンサルタントのキャンプ内に特別室を作ってもらった。

聞くところによれば、このTRS-80はビルマに初めて来たパーソナルコンピューター2台の内の一つであって、あとの一つはあのネ・ウィン将軍(1911-2002)が取り寄せたものだったそうである。高齢な日本人ならその名をよく知っている筈だが、当時すでに70歳を超えていてなお国軍と政党と行政の最高権力者として、このような当時最新の情報機器をどのように使おうとしたのだろうか。

ちなみに、彼と共に日本軍の軍事訓練を受け、共に反英・ビルマ独立のために闘い、彼より先に将軍になったアウンサン(1915ー1947)のその娘、アウンサンスーチーさんは現在ミヤンマー政府によって軟禁の身である。

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