自分史

2008年2月28日 (木)

続々 今年の e-Tax (2008)

このシリーズの前々回の記事で、e-Tax の申告(送信)時に必要な公的個人認証サービスの電子証明書は、その有効期限が 3年 だから、それを毎年たった一度しか使わないのなら、両3年の間に1年の休眠期間を挟んでもいいと書いた。その更新のために区役所に行き \500 を払うのが、3年 に一回ではなく 4年 に一回で済むのだ。 と、このケチな発見を得意げに思っていたおじんは、今日 今年の送信をして見事に躓いた。

Etaxmsg0802r それは、一旦有効期限が切れてしまった電子証明書は、たとえ同じ住基台帳カードの上であろうと 「更新」 では無くて 「新規発行」 をしなければならないと言うことと、そのことを国税庁にも 「初期登録」 しておかねばならないことに気付かずに申告書を 「送信」 したからである。 その送信自体はエラー無く終わった (新しい電子証明書もちゃんと認識された) のに、送られてきた審査結果のメッセージには 電子証明書が未登録だとの 「エラー情報」 が書き込まれていて 「データに不備があるからそれを直して再度送信せよ」 とあった(右上の画像をクリックすると拡大する)。

早速、手元の説明書や国税庁のサイトを調べなおして、所定の 「初期登録」 をしてから再度の 「送信」 をして、今度は 「エラー情報」 の無いメッセージを受け取った。 しかし、今夜の酒はとてもニガい。 e-Tax を過去3回もやってもう慣れてるぞという おじん のプライドなど吹っ飛んじゃったからだ。 まさか、4年目に再び 「初期登録」 などと言う手順を踏まねばならないなんて、思いも寄らなかったからだ。 何故 「更新」 という通路が無いのか。 それは セキュリティ のためと言うのだろうが、「他人に成りすまして納税してくれる人」 などこの世に居るのかいな?・・と言い返したい。

2006年の関連記事はこちら→ e-Tax(06.01.12)続e-Tax(06.02.16)続々e-Tax(06.04.21)

2007年の関連記事はこちら→ 今年のe-Tax(1)(07.02.04)同(2)(07.02.16)同(3)(07.02.17)過ぎてなおセキュリティー (07.02.21)Javaテクノロジー (07.02.27)今年のe-Tax(4)(07.02.18)

2008年の関連記事はこちら→ 今年のe-Tax(2008)(08.01.20)続 同(08.01.30)

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2008年1月30日 (水)

続 今年の e-Tax (2008)

Etax0407 前の記事で(還付でない場合の)e-Tax の送信受付開始日時が明示されていないことを書いた。 そのこととは直接関連がないが、方々のサイトを調べていて気が付いたことがある。 e-Tax の定義が人によって様々だと言うことだ。 「 e-Taxは、自宅やオフィス、税理士事務所からインターネットを利用して申告、申請・届出等が出来る便利なシステム」 だと国税庁は言う。 が、そのシステムの流れは(関係するソフトも含めて)単一ではないのだ。 今ネット上で、「 e-Tax でやります(やりました・やりません)」 などと言う記事が氾濫しているが、それがどの 「流れ」 のことなのか、書いている人も読む人も特に識別していないので、このままでは誤解が広がってしまう。

一般納税者としての私の認識をまとめると、現在、所得税の確定申告の方法には次のように色々とあるようで、それらの中で e-Tax が機能しているのだが、それは一連のシステムであったり 単なるソフトであったりして、位置付けはそれぞれ違っている。

  ① 従前通りの手書きで郵送又は持参
  ② 会計ソフトで作成、郵送・持参又は e-Tax で送信(☆、注1)
  ③  作成も送信も e-Taxソフトで(☆)
  ④  作成も送信も国税庁HPで(☆)
  ⑤ 作成は国税庁HPで、これを印刷して郵送又は持参
  ⑥ 作成は e-Taxソフトで、これを印刷して郵送又は持参
  ⑦ 作成は e-Taxソフトで、これを国税庁HP上で送信(☆)
  ⑧ 作成は国税庁HPで送信は e-Taxソフトで(☆)
       もっと他にもあるかもしれないが・・

上記の ① 以外はみな e-Tax が絡んでいるのだが、今後は ④ が一般の納税者向けのお薦めコースになるのであろう。 右上の図 (クリックすると拡大する) からもそれがうかがえる。 しかし、そもそも e-Tax が始まった平成16年(平成15年分所得税)の申告では上記の ④・⑤・⑦・⑧ などは無かった方法(平成17年申告から可能)である。 私の場合、e-Tax 初年は旧来の ① で、翌年は ⑤ で、一昨年は ③ で、そして昨年は ③ で初めたが結局は ④ でやった。今年は初めから ④ でやることにしている。 理由は、昨年のブログにも書いたのだが、④ が一番使い易いやすいからだ。 ③ は多分税理士事務所等向けなのだろう、沢山の帳票が使え、「切り取り」や「組み込み」などの機能もあるがかなり専門的で使い難く、年に一度の個人の用途には向かない。

実は、④ の方法で行くならば所謂 e-Taxソフトは要らないのだ(要るソフト&ハードは別にある)。が、国税庁のHPにはこのことを明示している箇所が見付からない。 要ると書いていないのだからそれでいいのだろうが、初めに ③ の方法を知った人は、つい ④ でもこのソフトが必要だと思い込む危険(=無駄:注3)があるのだ。 おじんのように頭の良くない、しかし善良な一般納税者を誘導するにはこの種の親切な 「明示的なガイド(注2)」 が必要なのだ。 前記の(還付でない場合の)e-Tax の送信受付開始日時が明示されていないことと同様に、改良してほしい点なのだが・・。

注1 ; (☆)が付いた方法だと、ここ2年で一回だけ「電子証明書等特別控除」が適用される (ただし公的な証明書の場合だけ)。⑤や⑥や還付申告ではそれが適用外だということに気付いていないお方(ブログ)が見受けられる。

注2 ; ④ を薦めながら、それには不要なソフトのダウンロードコーナーをほぼ同じレベルに置いているのは無駄を通り越して危険だと思う。 「明示」 されていなくても、よーく読めば (頭の良い人には) 分かるんだと国税庁は言うのだろうが・・・。 公的なHPの命はユーザビリティーである。 法令書とは違うのだ。

注3 ; 電子的に提出した申告書を別途紙に一括印刷しておくには e-Taxソフト の方が手早くて便利な感じがするが・・。

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2007年9月30日 (日)

ミヤンマーと日本

Myanmar07 緊迫したミヤンマーでの犠牲者の中に日本人も含まれることになってしまった。 日本政府は、真相の究明と関係者の処罰をミヤンマー政府に求めているが、「関係者」 とは撃った兵士やその上官らのみを指すのでは勿論無い。 それは 「ミヤンマー政府」 そのものだと言わねばならない。 それが 「軍政」 というものなのだ。 少数民族を弾圧し、総選挙の結果を無視し、唐突に遷都 を行い、無謀な物価のコントロールを行う、その為政はとても異常なものである。

そこはしかし、私にとってとても懐かしい国である。 あの国 のあの人々が、なぜあのような政体のままを許して過ごして来たのであろうか?。 既に彼の国を逃れ出ている人々は、故国を正すために 「外国からの援助を止めろ!」 と叫ぶ。 だがこの訴えに私は、昔 (1983 及び 1995) 農業開発の技術援助に参画した一人として、複雑な思いに陥る。 この時に食料や医療や教育関係の援助まで止めていいのかと思うからだ。 たとえ援助を止めて国土が枯れても、結局困窮するのは一般国民だけであって、軍人は決して困らない。 それが 「軍政」 というものなのだ。

悪政を正すべくクーデターが行われても、そのまま軍政が長引けば、それはまた悪政になるのだ。 そんな自明なことを考えながら、思いは彼の国の軍政の繰り返しに至る。 大戦中に日本軍の支援を得て英領からの独立を期した アウン・サン(1942) 。 その後独立 (1948) して連邦となるも、少数民族や共産勢力等による混乱が続いて、それを クーデター(1962) で収めてビルマ式社会主義を標榜した ネ・ウィン 。 それが失敗して1988年の学生暴動などの不安定化を招き、それを再度 クーデター(同年) で収めた ソー・マウン 。 以後社会主義経済を放棄して市場経済化を謳うも、総選挙(1990) の大敗を無視したまま、国軍による圧政は タン・シュエ (1992) に引き継がれて今に至る。 言葉は同じだが、隣国 タイでのクーデター とはその動機も事後の様相も全く違う。

その間、日本の姿勢は謂わば「仏教的」とでも言おうか、該国に対する援助は深く静かに行われて来ている。 それは日本企業群の都合だと言う見方もある。 対して、米国は1991年から対ミャンマ-経済制裁に入っており欧州各国もほぼ同様である。 制裁に反対している中・露・印などの周辺国はシタタカな計算をしているのであろう。 では、これからの日本は如何に対処するべきか?。実は、アウン・サン も ネ・ウィン もかっての日本陸軍「南機関」の下で特訓を受けた軍人であり、当時の日本の軍歌は今も該国軍で演奏されているという。 しかし、日本はいま平和国家であり、経済大国の一つである。 だから、日本及び日本人は、如何なる手段を以って、現今のミヤンマーに対処するべきか?・・、着実に 慎重に しかし早急に・・

注1 ; 国民に「ビルマ建国の父」と尊敬される アウン・サン は英国からの独立を果たす前年の1947年に暗殺された。その時2歳であった彼の長女が、現在軍政によって軟禁されている アウンサンスーチー女史 である。
注2 ; 左上の画像は、緊迫の様子を伝える「ビルマ民主の声」のサイト(ノルウェー発)である。昨日現在では、一般のネット接続が切られてしまったので該国からの発信は不可能になってしまったが、大国の大使館や企業の出先などでは衛星や無線を通じてインターネットに繋ぐことが出来ている筈である。
注3 ; ビルマ(今のミヤンマー)に関わる私の思い出は幾つもある。右枠のカテゴリーで「ミヤンマー」をクリックすればその全てが並んで現れる。

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2007年9月17日 (月)

電話今昔

Phonenumb 久し振りに近隣の市まで出掛けたのだが、JRの駅まで来て、財布を忘れたのに気がついた。 そこまでは市バスと地下鉄を利用したので 敬老パス でOKだったのだから気付くのが遅かった訳だ。 これでは切符も買えないし約束の時刻に間に合わない。 おまけに手帳も携帯電話も忘れて来たので訪問先の電話番号も分からない。 ただ敬老パスにはテレフォンカードが挟んであったから、家から連絡をしてもらおうとて、公衆電話 を探したのだがそれが見つからない。 一昔前には、見渡せば必ず見つかったのに。

慌てて家に帰って出掛け直しをしたのだが、妻に笑われるやら、先方にお詫びするやら、時間に厳格なおじんとしては、まことに情けない一日であった。 日ごろ携帯に使われているような人々を冷笑している身としては、今回だけは自分で自分をけなしたい気持ちであった。 それにしても、公衆電話 が見当たらなくなったものだ。 確かにここ数年で、我が家の近くにあった筈の数箇所のものが全て消えてしまっている。

電話機、それは1876から77年にかけてベル、グレイ、エジソンらが先を争うように発明したものが原点である。 翌78年には、日本政府によりベルの電話機が模造され、90年には東京・横浜間に日本初の電話が開通したというから、日本の電話史は世界のそれとほぼ同期だったと言えよう。 草創期は国策によったものだから、それらは 局舎内(宅内)電話 でありそして同時に 公衆電話 だったのであろう。 120年後の現在、電話と言えば、その数では携帯電話が圧倒的に多い。 それでは、これら 宅内電話・公衆電話・携帯電話 の台数の推移はどうだったのだろうか?。

右上のグラフ(クリックすると拡大する)は、この疑問に答えるために、自分であちこちのサイトからデータを寄せ集めた結果である (例1例2例3例4)。 なるほど、携帯電話の爆発的な増加に踏み潰されるように公衆電話が減っている。 実はこれは民間会社(NTT)のものであって運営上は公共施設では無いのだから簡単に「減らすな!」とも言えないし、普段皆が使わないから、赤字なのだから、減るのは当然だ。

しかし、災害の地域や生活弱者の日常を考えると、公衆電話も大切な ライフライン であり、まさしく ユニバーサルたるべきサービス なのだ。実はそれらの維持のために、宅内電話や携帯電話の利用者はみな応分の負担をしているのだが、それに気付いている人は少ない。 私も今初めて確かめたのだが、毎月の電話料明細の中に示されている、ユニバーサルサービス料 7円/1番号 がそれである。

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2007年8月29日 (水)

楠(クスノキ)とノウゼンカズラ

Nouzenkazura 庭の南端にかなり大きな楠の木(クリック→)があって、春から秋にかけて、薄いピンク色の ノウゼンカズラの花 がそれに纏いつく。 この楠は、長男の小学入学のお祝いに名古屋市から頂いた庭木引換券が活きたものである。 それは今から 35年前 に植木市から乗用車で運んだもので、始めは子供の背丈ほどの苗木であった。 楠は 「常緑樹なので落ち葉はない」 などと安易に思っていたのは大間違いで、晩春の新芽の時期の前には大量の落葉があって、おまけにこの照葉は中々堆肥にならないので始末に困る。 が、この枯葉を袋に詰める時には、あのいい匂いが楽しめる。

ノウゼンカズラ の方は、街や高速道沿いによく見られるような橙色の花のものではなく、薄いピンク色のもの (pink trumpet creeper) である。 手元の本には 「吸着根を出してほかの木によじ登り、ついにはその木を枯らせてしまうほどに生育旺盛」 だとあるが、この薄いピンク色のものはそれほど横暴ではなく、この楠に自分で登る力は無かったようで、毎冬に上へ上へと私が誘引してやった結果である。 現在はとても居心地が良さそうで、長く垂れ下がった枝についた花々がゆっくりと揺れている。 猛暑の中で涼やかさを与えてくれて 愛らしい。

実は、数年前のある冬に、頼んだ植木屋さんがこれをきれいに刈り取ってしまったことがある。 どうやら、「ノウゼンカズラには毒もあって悪い植物」 であると決め付けられていたらしい(これは誤解だと言うサイトもある)。 元の大きさに育つまでにまた数年掛かったのだが、以来我が庭は二人だけで手入れをしている。 お陰で、我が家の木々は、野放図に天高く伸びてしまった。 どうしよう・・。

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2007年8月11日 (土)

還暦の祝い

私の 還暦 はもう一昔も前のことで、当時はさしたるイベントなども無く通過したのだが、これは、今年それを迎えた ある丁亥(ひのとい) の男性のお話である。 誕生日には少し早いが、彼ら夫婦はこの夏、それを祝う温泉一泊旅行に子供らを招いた。 招いたとは、「主賓 が即ち スポンサー」 になったということなのだが、その企画演出の一切は例のごとく二人の娘がやってくれたものだ。 そして娘たちの旦那や親戚は、いつものようにわくわくとした期待を抱いて、喜んで参加させてもらった訳だ。

60thbirthday それほどに、この姉妹の企画・演出のセンスはともに見事なのである。 その夕べの宴席で、色々なプレゼントに加えて、とりわけ「主賓」を喜ばせ感動させたのは、参加者みんなによる寄せ書き (←クリック) であったようだ。 前以て内々に、それぞれが寄せていたのは 「祝詞」 と 「写真」 だけだったのだが、それらが見事にアレンジされて、大きな一つの額にきれいに並んで収められているのを見て、しかもその中に孫娘の懸命な筆跡を見れば、本人ならずとも誰もが、宴席の仲居さん達までもが、感動せざるを得ない贈り物になっていた。

その日の彼は、伊豆の 名湯 に何度も浸り、熱い湯で幾度も顔を拭いながら、来し方のわが労苦の汗を流し去ったことであろう。 そして、「さあ、これからも・・」 と、更に意義ある余生に向けて、その感慨を新たにしたことであろう。  それにしても、「頼もしきは娘・・・」、これは真実である。 あいにく私どもには、その種のセンスに欠けた息子が二人だけなのだが、だから今、それぞれにかわいい 「娘」 が来て居てくれて、とても嬉しい。

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2007年6月30日 (土)

おじんとおばんのDIY

我が家の DIY 度はかなり高いものだと思う。 私は日曜大工が大好きだし、妻の裁縫・手芸はプロのレベルを超えているように見える。 でもお互いにもう歳だから、これらの趣味を生活の前面に押し出すと言う気持ちは持っていない。 なのに、この6月の我が家は 「毎日が日曜大工」 であった。 それもブロック積みという、高齢者には相応しくないような重量級な作業で、しかもその理由は、傾斜地での境界フェンスの老朽化という極めて専門的な事情によるものであった。

実は、我が家の南面の庭の東側には、隣地との間に鉄製のフェンスを設けていたのだが、これが 33年 を経てあちこちで錆びてしまい、専門家に診てもらったのである。 我が庭は自然の地形のままに南に向かって傾斜していて、そのままにフェンスを設けていたのだが、隣家は全体を水平に切り開いて造成したので、ある所では我が敷地の方が高く、庭の先では逆にあちらが高くなってしまい、そのためにもう一列のブロック隔壁を境界線ギリギリに設けてその食い違いを仕切って、土止めとしておられたのである。 専門家はその状況を見て、何やら小難しい話をしながら、今回の修理は隣地も掘り起こすことになると言った。 単なるフェンスの修理だけでは 「仕事にならん」 という心だったのであろう。

Blockfence そこで、我が持ち前の DIY精神 が目を覚ました。 即席の 「超大型水準器」(散水用のホースを水で満たして 「高所の方の口を溢れさせ、低所の口を持ち上げて "溢れさせない" と、両者の高低差がミリ精度で読める」  という原理を利用する) を使って庭の傾斜を測量し、ブロックとフェンスとの配置図を描いてホームセンターや専門の 展示場(脚注) を訪問した。 我が家のフェンスの基礎ブロックは敷地より丁度 10cm だけ控えて設置してあったから、隣地のブロック壁との間には無用な隙間があったのだが、今回はここにもブロックを入れて都合3列 (2列は当方のもの、1列は隣のもの) で耐震性を確保し、取り去った旧いフェンスの縦棒の中には錆びてはいないものもあったので、これらをブロックの穴から地中に打ち込んで更に耐震性を加えることにした。

高齢者の屋外 DIY には梅雨時がいい?!。 雨が降れば体を休めることが出来るし、セメントコンクリートの硬化時間も取れて しかも(湿りは)その養生にもいいからだ。 日頃、ブロック積みの職人さんの仕事などを見ると時間を忘れてしまうという妻は、それを自分でやれることになって嬉々としていた。 妻には、国宝級の板金職人だった父親の血が流れているのだ。 とは言え、もとよりあのような見事な 鏝(コテ)使い は出来ず、何だか和菓子職人のような手付きだったのだが、なにしろ自分で 「親方」 も 「施主」 も兼任していたのだから怖いものは無い。 私はもっぱら助手役で資材配置の微調整役をやらせてもらった。 が実は、そこが肝心で、出来映えの良さ!はその辺から来ているのだが・・・。

(注) ; メーカーの展示場へ行く事は幾分か危険が伴う。 妻が、どれもこれも欲しくなって欲求不満に陥るからだ。 それよりも現今はそこの公式サイトを訪問するに限る。 店員さんは寄って来ないし、全製品がきれいに分類されて並んでいるし、説明も詳しいからだ。 実作業の最中に、ちょっと行って調べ物が出来るのも有難い。

上の写真では、3列目にあたる隣家のブロックは低いので見えない。

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2007年5月20日 (日)

52年ぶりの吾が娘に・・(4)

「楢山節考」

Narayama これは第1回中央公論新人賞(1956年)を受賞した深沢一郎の小説の題名であり、その後二度も映画化されたものの題名でもある。 それらの内私は、木下恵介監督の作品(1958年)を観ている。 それはもう半世紀も前の私の学生時代のことで、内容に関連は無いが、ちょうど姉が娘二人を瀋陽に置いて一人で帰国した頃の、日本での話題作である。 一般には「姥捨て」の話とされているが、そんなに単純な悲劇ものではなく、もっと深く、日本古来の宗教性を感じさせられる印象であったと記憶している。

今、これを思い出したのは、今回私が姉を中国に連れて行ったことは、ある面から言えば、それはまさしく 「姥捨て」 ではないのかという自問が続いているからである。 あの映画の老婆は、今迄の住家を離れて、行けば確実に死ぬであろう山奥に向かうことを積極的に望み、喜々として息子の背におぶさる。 その山奥で待っていたのはカラスの群れだったのだ。 が、一方先日の瀋陽空港で、涙と抱擁で迎えてくれた娘たちの家族群の心はそれとは全く違う。 比較することさえ申し訳無いほどの世界へ私共は着いたのだった。 昨日の姉からの手紙によれば、夜明け近くになると、娘がきまって 「母」 のベッドに入って来て、手を握ってくれるのだという。 「もう離さないよ」 と言いいたいのであろう。

Narayamab でも、こちら側はどうなのであろうか?。 もしそこに、「厄介払い」 の気持ちが少しでもあったのなら、それはなんとも恥ずかしいことだ。 ・・そんなことにとらわれていることさえ恥ずかしい。    実は、姉はこれから毎日、日記を書くことと 「写経」 をすることを約束してくれている。 共に彼女には始めてのことだと思う。 その第1週分がこちらに着いたので、折角のことだからとて妻に添削してもらったら、たちまち朱い文字でいっぱいになってしまった。 早くこれを送ってやろう。 いま改めて 「般若心経」 を読みながら、自分にも 「とらわれない」 心がほしいよと、切に思う。

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2007年5月16日 (水)

52年ぶりの吾が娘に・・(3)

「二度童(にどわらし)」

Shenyang0752_1 瀋陽での夕べ、老婆を歓迎してもらった宴席での答礼の挨拶で、私は 「姉はもう、日本で言うところの "にどわらし" なのです。 だから、これから皆さんに色々と迷惑を掛けていくと思います。 なのに、連日このような席を設けて頂いて御礼の言葉もありません・・・。」 と、これだけ言ってもう胸がいっぱいになってしまった。 それに対して、「グランマのことは心配しないで下さい。 それより私たちは、今回、彼女を瀋陽まで連れて来て下さった叔祖父さまご夫婦のご苦労こそを感謝したいのです。」 と、通訳女史を経ての優しい言葉が返ってきて、もう堪えることが出来ず、今までの我が胃の痛みとともに、熱いものが流れ落ちたのであった。

人は加齢に従って 「もの忘れ」 がひどくなり、更に進んで病的になれば、いわゆる 「認知症」 になる。 でも姉は、そのどちらでもない。 いたって元気なのだ。 しかし今迄は、周りの方々がはらはらするような勝手気儘な振る舞いをしてきたようである。 遠く離れて暮らしてきた私自身は、その被害を被った経験が無いので詳しいことは知らないが、今回の瀋陽訪問に当り、それに素直に賛成出来ない弟妹やお家族の説明から想像すれば、私にはそれが 「にどわらし」 の行いそのもののように思えたのだ。

言い換えれば 「天真爛漫」 ・・・、 敢えて、そう思ってやりたい気持ちであった。 それが、老いて行き着く幸せの形なのだと。 今回の中国渡航は、ひどい書痙で字が書けない私を補佐してくれる妻と、二人だけで実現させたのだが、それが出来たのも、このような思いが支えになったからである。

この姉のみならず、私の周囲にも 「わらし」 や 「認知症」 らしき人はあちこちに居る。 これらの人々に、大きく優しく接することは、確かに、言うに易しいが励行は難しい。 逆に狭い社会では、そこに 「排除の論理」 が働いてしまう。 もともと 「隣は他人」 という都会ならそれが普通なのだろうが、旧い田舎ではそれがきつく働く。 悲しいことに今度のことで、我が故郷の地にもそれを私は感じてしまったのである。 ・・・ 問題な人をこそ慈しめよかし ・・・、「赤子叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」 ・・・、この言葉を、私は今日もかみしめている。

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2007年4月27日 (金)

52年ぶりの吾が娘に・・

私の長姉は今度、半世紀以上も前に分かれたままになっていた二人の娘に会えることになった。 その謂れは、姉が満蒙開拓団員の花嫁であったからだ。 昭和19(1944)年に渡満し、昭和30(1955)年に日本へ引き上げて、以来半世紀余り、現在81歳の彼女の人生も、30万人とも言われる他の団員の皆さんと同様にとても苦難に満ちたものであったようだ。 「ようだ」と言うのは、姉はそれをあまり語らなかったからである。 そして私たち弟妹も、(自分たちの都合ばかりが優先してしまって)そのことには触れないようにして来たからだ。

長姉は、私どもの親の没年齢 (母は60歳、父は82歳) を間もなく超える。 波乱に生きて来た彼女は、さすがに元気で、最近になってようよう その姿が亡き母の面影と重なるように見えてきた。 そこで昨年暮れに、私から乞うて、その波乱の思い出を初めて話してもらったのである。 あの大戦の末期、祖国の行く末もつゆ知らず、幾組かの若い夫婦達が希望に燃えて、新天地に向けて出発して行ったのであろう、あの田舎の駅頭にいっぱい振られていた日の丸の旗の波々、その波だけが、当時5歳であった私の記憶に残っている。

Manmounote 希望に満ちた出発であったのに、あちらで待っていたのは厳しい開拓生活、そして夫の現地召集、続く敗戦と ロシア兵からの逃避行、背中に負ぶっていたままの長女の死、・・その内容は、平和ボケの私には想像さえ出来ないとても悲惨なものであった。 話してくれて以来、姉の胸の中に熱いものが燃え始めたのであろう。 たったひと目でもいいから、52年も前に分かれたままの二人の娘に会ってから・・と・・。 その子らは、姉の逃避行の終端でその命を救ってくれた中国人との間に生まれた子達である。でも、その恩人はもう故人とのことだ。

帰国して再々婚した姉は、その夫とも死別し、その家で安らかに過ごさせてもらっている。 だから今迄、あちらの子らに会いたいという気持ちを必死に堪えて来たのであろう。 しかし、もういいのではないか。・・ と、私は姉の願いを叶えてやるべく、色々と複雑な調整や手続きに走り回った。 そして間もなく、姉を連れて行く。 そうだ、あちらで待っているのは、私の姪たちなのだ。

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2007年4月20日 (金)

川の流れのように

「ああ 川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて ♪♪」、美空ひばりの最後のヒット曲 ・・、これを聞くと、昔は豊かだった故郷の流れの風景が目に浮かぶ。 味わいは人それぞれであろうが、私には安らぎと潤いを感じさせてくれる歌だ。 そして、もう一つ別の感慨が湧く。 内外の水利事業の業務に関わって来た土木技術者としての感慨である。

一般市民にはあまり知られていない概念だと思うが、国家には治山治水への責務があり、日本ではその施策の中に、「川の流れを維持する」 という趣旨が明示されているのである。 そのための流れの量を、専門用語で 「河川の維持流量」 と言う。 河川において、水を貯めたり、水や魚を取ったり、航行したり、遊んだり、環境や自然を保ったりするのに、流れの維持はとても大事なことで、しかもとても複雑な利害の絡みの下でそのための施策が進められているのだ。

それらの要件を無視したままに、ただ川の流れを貪り・汚せば、結果は明らかである(例1例2例3)。 悲しいことに、これらの例はいずれも、結果が出てしまった後になってから 「明らかである」 と叫ばれているのであって、人類の歴史とはこんなものかとも思う。  ・・ところで、あまり読みもしない沢山の機関紙やダイレクトメールの中にあって、ある出版社から送られてくる季刊通信だけは文字通り有難い。

重厚で真摯な内容ばかりだから、読むのがとても楽しみなのだが、今回もあの 御歳100才 の 松原泰道師 の 紙上講話(注1) に引き付けられた。 それは 「川の水を全部自分のものと思ってはいけない。 下流の人びとのために、水を戻す」 のだという 道元禅師 の教えについてのくだりであった。 それを実行されたという 「半杓橋」 が架かる 永平寺 の前の川は、多分豊富な流れがあったに違いない。 それでもなお、そのようなお考えが生まれるとは・・、まさしく川の流れのような御心に触れた思いがしたのだ。

注1) ; やすらぎ通信(ユーキャン出版局編集部)2007年春号 p8 松原泰道特別紙上講話 「和敬静寂」 より ・・・ 曹洞宗の祖・道元禅師は毎朝、永平寺の前を流れる川の水をひしゃくで手桶に汲んでおられました。 最後に、ひしゃくの水の半分は川に戻すのです。 これが由来となり、その川にかかる橋は半杓橋と呼ばれるようになりました。 ・・・

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2007年3月 5日 (月)

おこしもの と ぼろ

「おこしもの」 と 「ぼろ」、今朝の NHKラジオ でこの二つの言葉を聴いてとても懐かしい気がした。 前者は うるち の米粉を熱湯で練って色々な木型で整形して蒸してさまして (清水中に) 保存し後日これを焼いて砂糖醤油を付けて頂くもので、桃の節句にだけ作った 押し餅 の一種である。 後者は もち米 で餅を搗いて伸ばして固めて細かく切って保存し後日 焙烙(ほうろく) で煎って頂いたもので、暮れの餅搗きの時などの付録レシピと言ったところだ。

今はほとんどの家庭で消えてしまったものだが、最近 「おこしもの」 が季節限定ながら近くのスーパーで見つかるようになったのが嬉しい。 その思いは私のみでなく、戦前生まれの愛知県人なら皆持っている筈だ。 他に、今でも盛んなものに 「焼き芋」 があったが、私の場合のそれは、ご飯炊きや風呂沸かしを引き受けて かまど の中の稲藁の おき火 を確保してはじめて得られる楽しみであった。

「ぼろ」 については、それは佐賀名産の 「ボーロ」 とは別のもので、ネット上では、その語源も謂れも見付からなかったが、思いがけないところにそれが登場していることを知った。 それはあの 「ごんぎつね」 を著した児童文学作家 新美南吉小説「川(A)」である。

私の子供時代はお菓子は買って食べるものではなく、母が作ってくれるものだった。その母も農作業に忙しくて、作ってくれたのは秋の収穫後の 「ぼたもち」 と、年末の 「餅」 や 「ぼろ」 と、春の 「おこしもん(三河弁)」 だけで、それも我が家では貴重品だった。 こうした懐かしい郷土の食べ物の復活がこれから盛んになるような予感がする。 今検索をしてみると、あちこちで、若いお母さん達のブログのテーマになっていて好ましい。

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2007年2月27日 (火)

Javaテクノロジー

Java_etax 左の画像は、国税庁のサイト(ホームページ)にある 「申告書等作成コーナー」 を利用した時の終わり頃で、出来上がった帳票群を結合して一つのファイルとし、いよいよこれを国税庁のサーバーに送信しようとする段階で現れるものだ。 横 600ピクセル X 縦 400ピクセル の枠内に、湯気の立つ コーヒーカップ を前に 後光もどき の模様が回る。 これは、今からこの枠内で Javaテクノロジー が使われるよと前触れをする Sun Microsystems 社の誇り高き 動くロゴなのである(2007年中に別の新しいロゴに変わっている)。

その枠内では、「送信すべきファイルをユーザーのパソコン内で参照(把握)し」 ・ 「ICカードリーダーに挿入された住基台帳カード(公的個人認証サービス)で本人確認を行い」 ・ 「国税庁の受付システムにログイン(入場)して同時にファイルを送信し」 ・ 「システムからの即時受信通知を表示する」 という四つの手順が進行する。 大事なお金がからむようなサイトで、例えば金融や通販やゲームのサイトで、このように Java が働いている位置が見えるようなのを知らないので、ここでは何だか親しみを感じてしまった。

実は私が作成したサイトにもこれが現れる (例1例2)。 ただしそれらの エンジン部分 は専門書からの借用品で、そこに画像など自作の データ部分 を挿し込んだに過ぎない。 このように Java (①) は、ホームページの コンテンツ(内容) をより動的に多次元的にするための技術であるが、他にも色々な技術が色々な技術集団から生まれている。 その内、おじんが自分で付いて行けるのは JavaScript (②) と CGI くらいで、これらは大いに使わせてもらっている (例1例2) し、国税庁のサイトでも殆どのページで ② が多用されている。

① と ② は名前が似ていて、初心者には紛らわしいが、内容も開発者も全く別である。 ただ発表当時(1995)、① への世間の注目度が非常に高かったのでそれに便乗する思惑から ② のように命名(改名)されたらしいと言われる。 両者ともに今やホームページ作りに大いに役立っていて、その構築のための基本文法 (HTML) を一つの スタジアム だとすれば、さしずめ ① は競技者達であり、② は営繕兼進行係りとでも言えようか。 となれば、Flash は即ち チアガール かな!?・・。

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2007年2月19日 (月)

まあるい新月

Moonvenus デイ会員である私共は午後6時きっかりにスポーツジムを退出する。 家まで車で十分足らずの道だが、そしていつも同じ道なのに、夕刻の車窓から、ふと季節の移ろいを見付けて楽しむ。 今日の発見は、新月と金星とのランデブー、低い西の空、快晴の夕焼けの中に、このカップルが見えた。

今日の月齢は1、これを 「二日月」 とか 「既朔(きさく)」 と呼ぶようだが、「新月」=「始めに細く出る月」 と言う意味もあるようだ。 普通は満月の反対を言い、正しくは全然見えない筈なのだが、今日はまさしく 「新月を見た」 訳だ。 そして、上の写真をよくよく見ると、新月もちゃんと丸いことが分かる。

この写真は、私の3台目のデジカメ (600万画素) で撮ったものである。一台目は 30万画素、2台目は 131万画素、今や 1000万画素以上 も出ているデジカメの機能の多様さや凄さには、おじんはもう付いて行けない。 なにしろ、新月さえ丸く写るほどだからだ。 そして、おじんと言えば、自分ので動画が撮れることを知ったのは買ってからしばらく後だったし、手元の携帯にカメラが付いていたことにも同じ有様だったのだ。

ところで、暗いところではフラッシュを!・・、これって昔のフィルムカメラでは当たり前だったが、デジカメでは間違いだ (フラッシュ無しの方が臨場感のある写真になるコトモアル) と言うこと、未だ気付いていない人が多いのでは?。

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2007年1月27日 (土)

ビルマの秘酒"泡盛"

実に久しぶりに秘蔵の泡盛を飲んだ。ウィスキー が切れていたからで、しかも月末で財務省の財布の紐がきつかったからである。 それに、好きな日本酒を頂くと直ぐ眠くなるし、大好きな芋焼酎も毎晩では口が倦んでくる。 代わりに出してきたのが、あのアルコール分 60%  の与那国の花酒の一つ 「どなん」 である。 既に開封してあったものだから アルコール分 が幾らか揮発していたのであろう、かえってとても飲みやすく、香りも甘さも増していた。 そして、おやっ! これは、あの酒と同じだ! と、20数年前のビルマ(現在のミャンマー)の ○○ワイン を思い出したのだ。 先ず口の中を突く、あのやや鉱物的な風味が同じだと気が付いたのだ。

Promedinner それは、1983、84年と該国の中央部にあるプローム(現在のピヤイ:Pye) に一年間滞在して、サウスナウイン灌漑事業 の実施設計を担当した時の思い出である。 当時は該国産の マンダレービール の入手もままならず、はるばる タイ や 中国 との国境を超えて来る 密輸ビール(日本製) はとても貴重品で、だから、十数人の団員のための毎晩餐の アルコール の調達は団長の私の大きな仕事であった。 そんな中で知ったのが、水源ダムの建設予定地近くの集落で密かに造られているという ○○ワイン のことであった。 ワイン(=醸造酒) とは言うが、それは明らかに 米焼酎(=蒸留酒) であって、生憎その英語 (arac) をみんな知らなかったからで、現地雇いの料理人をして買いに走らせるにはそう言うしかなかったのだ。

今日改めてネットで調べてみて、それらの類似性を納得した。 すなわち、琉球泡盛の原料の米は、日本酒のとは異なる インディカ米 であり、主に タイ産 の 砕米 が用いられると言う。 それは、日本の他の 焼酎(spirits) と違い、東欧から東南アジアにかけて 1,200年 も前から造られていて 「アラック」 と呼称される言わば蒸留酒の原型なのだそうだ。 だから、それが ビルマ の片田舎でも簡単に手に入った訳だ。

あのころ私たちは、これの水割りを飲みながら、「これはインパール戦線からの敗走日本兵が、かくまってくれた土地の人に、故郷を想いながら造り方を教えたものに違いない」 と・・・いつも神妙に味わったものだ。 それは間違いだった訳だが、当時、あちらの カウンターパート(相手国職員)氏 は、そうとも否とも言わないで話題を変えたものだ。 それは多分、それが正規に納税した「酒」ではなかったからだろう。 あの○○の集落は、今頃、どんなたたずまいなのであろうか。 空になった 「どなん」 の瓶からただよい出るあの ブランデー にも似た香りを慈しみながら、懐かしいかの地の今を想った。

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2007年1月20日 (土)

ビスタ遠望

今月末にパソコン用OS(基本ソフト)の Windows Vista が発売されるらしい。 新しいものが大好きな人には、約5年ぶりのワクワクするイベントになるのだろう。 家電店の広告を読むと、まるでもう Windows XP はオシマイだと言っているようにも見える。 でもそれは、これからパソコンを新調しようとする人にとっては正解と言えるかも知れないが、おじんのように Windows 以前の BASIC(正確にはOSではないが) の時代からのユーザー(1980~)としては今 トキメクものは何も無い。 むしろ、過去にあったように、新OS のために 旧OS へのサポートがないがしろにされるのではという心配の方が先にたつ。

既に現役を引退していても、私の場合、パソコンは生活の必需品である。 世界中の愛犬家とメール(例1例2)をやり取りしたり、庭の花のデジカメ写真を楽しんだり(例1例2)、手紙や賀状を作ったり、ささやかにホームページを運営したり(例1例2例3例4)・・・と、様々な生き甲斐を与えてくれている。 さらに、日常の諸料金税金の支払いも、好きな旅行のための事前調査も手配もこれでやれる(例1例2)。 昔懐かしいプロジェクト現場の今の姿(衛星画像)もこれで見ることが出来る(例1例2例3例4例5例6)。 確かに、これらの便宜の多くは、Windows 98 から XP に替わってから更に快適に使えるようになったものだ。 それでは、今回の XP から Vista への変更で新しく登場する便宜とはどんなものなのか?。

華やかな ユーザーインターフェース だとか、強化された検索機能だとか、喧伝されているそれらの新機能の中に おじんが ビビッと感じるものは何も無い。 それは、私がまさしく「おじん」だからと言えばそうかも知れない。 それでいいのだ。 私の場合の新OS とは、旧OS を棄ててまで買うものではなく、愛用のパソコンがスリ切れて動かなくなった時にやむなく購入する新機に付いてくるところの、その日までに先人諸氏が汗と涙で使いコナしておいてくれた OS のことなのだ。

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2007年1月 7日 (日)

七草がゆ と エーデルワイス

Edelweissセリ・ナズナ・ゴ(オ)ギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ♪・・、春の七草は決まってこの並びで呼ばれる。 反復すると分かるように、語呂が良くて覚えやすく、歌えば初春の気分だ。 一方の 秋の七草 を挙げる時の並びは、今調べてみると、一定していないし、直ぐには全部を挙げられないのは私だけでは無いようだ。 そして、秋のそれらが観賞向きなのに対して春のは食用になる。 寒さはこれからだと言うのに、早くも食卓に春を運んで来てくれるとは、何とも 「味」 のある植物たちだ。 家族はあまり喜ばないが、私はこの青臭い粥を頂くのが年頭の楽しみなのだ。

昔は、野原や田んぼの土手でこれらをみな見付けることが出来た筈だが、そのころの私はこの風習を体験していない。 結婚して家を持って何時の間にか習慣になったのだが、それは七草の パック が スーパー に並ぶようになったからでもある。 それらはちゃんと解説書付で売られているのもいいし、その通りに内容が揃っているのかと まな板 の上に並べてチェックするのも楽しい。 他のは一株づつしか入っていないが ハコベラ だけはどっさりなのにも納得がいく。 故郷では、家畜の餌として探すのに一番簡単に見付かった草なのだ。 実は出来立ての粥が上げるあの独特な「香り」もこの ハコベラ の 「お陰」 なのだ。

さて、この中の ゴギョウ(御形、母子草、ホウコ草) を見るといつも思い出す風景がある。 40年前に研修先の ドイツ・スイス国境 の山で見た エーデルワイス の花である。 ただしこれは、共に同じキク科の花ではあるが、母子草 とは繋がりが薄いようで、薄雪草の仲間であり、形態はむしろ 父子草 に似ている。 それでも、ゴギョウ の葉っぱが細やかな綿毛に包まれているのを見ると、あの白い綿毛に包まれた エーデルワイス の花を思い出すのである。 右上の写真は当時あちらから妻に送った絵葉書で、先ほど彼女が大事そうに取り出してきてくれたものである。

注) ; 画像の中の エーデルワイス は写真ではなくて実物の押し花である。 こんな絵葉書は現在はもう売られていないと思う。 スイスの国花であり、映画 「サウンド・オブ・ミュージック」 で歌われていたこの可憐な花も、今や希少な保護植物になってしまったようだ。

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2006年12月28日 (木)

丙戌(ひのえいぬ)から丁亥(ひのとい)へ

Eto120 年末年始にはあちこちで干支(えと)の動物が主人公になる。 厳密に言えばそれらは 「干支」 の2文字の内の 「支(し)」 の仲間たち (十二支) のことである。 もう一方の 「干(かん)」 とは、甲・乙・丙・丁・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛・壬(じん)・葵(き) の10種(十干)を言い、古代中国(殷)の時代に、日を数えるのに両者を組み合わせて使われたものだと言う。 以来3千年余の曲折を経て、今ではそれが年を数えるのにも使われていて、日本の年中行事にもうやうやしく登場し、暮れに新聞販売店から頂く 「高島歴」 に漂うあの厳かな雰囲気にもこれが一役かっている訳だ。 ただ、甲・乙・丙・丁などの音感には、戦前生まれの身にはほろ苦い味がする。 学校の通信簿を思い出すからだ。 が、戦後間もなくそれらは優・良・可・不可などに変わった。 今はどんな風になっているのだろうか。

ところで、十二支 と 十干 を組み合わせて 干支 と称し、これをサイクルして60年分のトシを表す・・・?。 あれっ・・?!。 ここで、ある程度 IT 関連のプログラムを経験した人なら、この?を見て、あれ! ほんと変だ! と気付かれた筈だ。 「配列」 という計算の常識から言うと、互いに異なる 12個の要素 と 10個の要素 との組み合わせは120組あるからだ。 暦ではこの内の丁度半分、60組だけしか使っていないようだが、あとの60組はどうなっているのだろう?。一体その採否の基準は何だったのだろう?。 こういう疑問にブチ当たると、おじんの胸は騒ぎ出す。 そして、得意の Lotus1-2-3 を立ち上げて分析して見る。 左上の画像がその結果である(注)。

すなわちその組み合わせでは、干と支の二つの要素群がそれぞれ偶数個からなっていて、しかも翌年は両要素群とも次順位のを採るという方式だったので、数学的に厳密な配列を行う場合とは違って、全体の半分は永久に登場しない組み合わせになっていた訳だ。 よって例えば 「ひのえうま」 の年はあっても 「ひのえひつじ」 の年は存在しないのだ。 だからこそ、還暦のお祝いは60年でやって来る訳だ。 若しそれが120年だったら・・!。 分っててそうしたのかどうか知らないが、このように 干支 の組み合わせの半分を切り捨てた、古代中国の人間臭い文化に感謝したい気持ちがする。

2008nycard さて、干支 と言えば、その中に 猫 が入っていないのは何故?・・ とよくお話の種になるが、実は今日 とても素晴らしい アニメーション (松戸市のお方の HP から) を見付けた。  そして 干支 はまた、大方の年賀状の主役でもある。 右のは 2007年 の私の賀状の素材である。 絵心の無い私はこうしていつも盗作に近いことをしてしまう。 名鉄さん、ごめんなさい・・。  2007年は丁亥(ひのとい)、良い年でありますように・・・

注) ; 左上の表 (クリックすると拡大する) から分るように十二支の内の半分は十干の内の兄(陽)とのみ結合し、後半分は弟(陰)とのみ結合して、合わせて60の組み合わせになっている。 その謂れは 「陰陽五行説」 辺りにあるような気がするが、詳しくは未だ知らない。

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2006年12月 7日 (木)

IT今昔 暮らしの商品編

Cntsunday2現在の消費者物価指数は、暮らしに必要な商品 584品目 の値段を係数処理したもので、2005年の値を 100 としてその後の物価の変動を時系列的に表すべく、総務省によって毎月公表されているのだそうだ。 その根拠になる品目 (年間家庭支出の0.01%以上を占める品) は消費生活の実態に合わせて見直されるので、よってこれは一義的な数値ではなく あくまでも指数である。 指数に影響する品目毎の重みも細やかに決められていて、一般国民の消費生活上の実感を反映するように工夫されているらしい。 が、良くも悪くも、この平均からかけ離れた生活をしている人々には、どう映るのだろうかちょっと興味が沸く。

これは、いつも見るのを楽しみにしている 「中日サンデー版」12月3日号 の 「暮らしの商品 うつりかわり」 (上の写真) を読んで感じたことだ。 そして、更なる興味は、絵にして示されたそれら品目群の変遷そのものに沸いた。 それは、戦後の日本人の日常生活そのものであり、わが人生の諸場面を映し出す走馬灯を見るようでもあったからだ。 中には、情報のやり取りに関わる品目も散見されるのだが、それはやはり 「IT」(脚注) という用語がはやり出したころ (1998) から増えていて、新しいものほど出入りが激しくなり、出たと思ったら直ぐに消えてしまった品目もある。

例えば、最初 (1946) からあった品目の内、インキは1960年に、電報料は1980、万年筆は1990、レターペーパーは2000、鉛筆は2005 にそれぞれ削除されている。 その他の消長を見ると、ラジオ1955~1980、白黒テレビ1960~1980、珠算塾月謝1965~2000、テープレコーダー1975~2000、小型電卓1980~2000、ビデオレコーダー1985~2005、ワープロ1990~2005、ゲーム機1995~、携帯通信料2000~、デジカメ・インターネット接続料・PC用プリンター2003~、薄型テレビ・DVDレコーダー・カーナビ2005~、などが載っていた。 役所の統計だから当然のことながら、それぞれの流行よりはややずれて登場している。 が実に、ここにも IT今昔 を見る思いがしたものだ。

注) ; 日本で情報通信に関わる概念や場を IT (Information Technology = 情報通信技術 ) という用語で括って言い表してきたのはほんの10年に満たない。 日経BP社の「情報活用ハンドブック」(1995.09.30)には早くもこれが記載されているが、当時はかなり狭義に使われていた印象だ。 現在の意味で国内で多用されるようになったのは 2000年代 に入ってからである。 ちなみにこの略語が、国際的に使われるようになったのは世界貿易機関での「情報技術協定(Information Technology Agreement)」(1996)あたりからのようだ。

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2006年11月23日 (木)

新嘗祭(にいなめさい)

今日は 「勤労感謝の日」、そのココロを 「日頃の我が勤労に感謝する」 日だとすると、年金生活の私どもは埒外になる。 それより、「日々勤労している人々に感謝する」 日であるとしたい。 そして現に働いている人達にとっては 「日々勤労出来ることに感謝する」 日であってほしい。 ただし公式には、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」 日(法律第178号) とされている。 が、これをちゃんと言える国民はそうは居ないだろう。 何だか分かった様で分からないが、このように、様々に解釈出来る 「法律用語」 は珍しい。

ところで、今年の11月23日はアメリカでも Thanksgiving Day (感謝祭) で休日である(=11月の第4木曜日)。 同じ 「感謝」 の日ではあるが、日本のは古来からの国の行事であった 「新嘗祭」 がもとになっていて、一方アメリカのは 1623年 に プリマス植民地 の教会で祝われたアメリカ最初の移民(1620)たちによる 収穫感謝祭 が起源だから、全く別の歴史を持っている。 偶然とは言え、同じような祝日が日付けまで一致するとは面白い。

さて日本のこの祝日は 1948(昭和23)年 の 7月20日 に公布・施行されたもので 「元旦」 などと共に月日が不変な点では数少ない国民の祝日なのである。 それは、戦前の 「新嘗祭」 を引き継いだもので、日付は同じだが、名前は大きく 意義は少々変えられたものだ。

ちなみに、私の小学入学は 1946(昭和21年)年 だから、その年と翌年との2回は 「新嘗祭」 を経験した筈だが、学校でどんな行事があったのか記憶がない。 なのに 「ニイナメサイ」 という音感は体の中に残っている。 体というよりは口の中にだ。 それは 「ぼたもち」の味。 秋の 「農あがり」 に母が作った唯一の甘味だった。 素材の 米 も 餅米 も あづき豆 も我が家での父の自慢の産物だった。

由緒あるところでは秋のそれを 「おはぎ」 と言い、春のを 「ぼたもち」 と言うのだそうだが、当時の貧乏な三河百姓は年に一度だけ、秋の収穫の祝いに 「ぼたもち」 を食べたのだ。 今でもこれを食べると、母の失敗を思い出す。 それは、ある年、相変わらずとても忙しかった母は、その出来立てを並べるロジ(大きなお盆のような長方形の器)が手元に無くて、先ほどまで熱いご飯を入れていたお櫃(ひつ)の中に重ねて並べたのだが。 さあ食べようとしたら、熱で全てがくっついてしまっていて、お陰で家中で 「餡(あん)まじり餅米ごはん」 を頂くことになったのだ。 あの味はもう思い出せないが、とてもとても懐かしい。

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2006年11月10日 (金)

日本語力

11/08 の クローズアップ現代(NHK) のテーマは 「どうする 若者の日本語力」 というものであった。 自分の日本語さえ不確かな (・・と日ごろ妻に言われている) のに、他人のそれを云々する力は微塵も無い。 が、その低下の原因として、このところの IT の進展が挙げられていることに、賛否こもごもの感慨が湧いた。 確かに、昔はワープロパソコン携帯も無くて、文字を手で書くことが情報伝達の大事な手段であった。 今は、それが無くて日本語力が落ちたという訳である。 でも、その人の日本語力はその人のアイデンティティーそのものなのだ。 IT とか教育とか言うよりも、 もっと基本的な、個々の日本人の文化の問題だと思った。

手書きについての私の経験だが、専門が灌漑用ダムの計画・設計・監理であったから、業務の成果を納めたのは(設計書や図面や報告書などの)書類の形でだった。 一つの業務当たりの文書の量は膨大なもので、それが全て手書きであった。 それが現在は、図面も 文書も 殆ど全てがコンピュータ上で作成されている。 しかも、類似文書からの流用 (コピペ+手直し) という手法が繰り返されて行くから、(不完全な手直しの結果) 技術計算も日本語も一旦壊れるとその部分が誰からも発見されずに後に伝わっていくことがあり得る。 それが情報伝達の質の低下の一つの原因だと思う。

この種の 「シゴトの仕方の変化」 は色々な場面で起きてきた。 LSI電卓が現れて机上からソロバンが消え始めたのが1967年、日本語ワードプロセッサー(JW-10)が市販され (以来漢字を知らなくても文書が書けるようになっ) たのが1978年、世界的な設計図面ソフトの AutoCAD が出たのが1982年、それが高価で手が出なかった我々にフリーで高性能な製図ソフト JW-CAD が与えられたのが1997年・・・と、本当に目まぐるしく発展をしてきたものだ。 それにつれて急速に 「手仕事が」 減った。 そのお陰なのか、私は手で字が書けなくなり、逆にキーボードだけが頼りになったのである。

このように、IT の進展によって影響を受けた人間の能力と言えば、なにも国語力のみでは無く、計算や製図や測量などの面でも大きな変化があったのだと言える。 この変化を単に人間の能力の 「低下」 と言う側面のみで捉えていては寂しい。 「低下もまた宿命、タノシからずや」 である。 嘆いている間にも IT の進展は続いているのだ。 やがて、頭の中で思っていることが即正しい文章になって出力されるようになるに違いない。 そうなれば国語力なんかは趣味の範疇に入る。 ナンクロ本が売れるわけだ。

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