学問・資格

2007年8月17日 (金)

アナログディバイド(情操格差)

よく 「デジタルディバイド(情報格差)」 とは言うが、「アナログディバイド」 という言葉は(今のところ)存在しない。 それは、アナログはデジタルより低位にあると考えられてしまっているからだ。 でも現に、両者はまさに対極にあって、ともに人類の幸せを考える時の大事な局面であるような気がする。 そして、それらの優劣の関係についても従来のそれは実は「僭越なる幻想」であったことに気付くべき時が来ているのだと思う。

例えば今、日本のテレビ放送はアナログ方式からからデジタル方式に移行しつつあって、前者は2011年に全面的に廃止されるという。 確かにテレビ受信の状態は格段に素晴らしいものになったのだが、「おいてきぼり」 の問題は残ったままだ。 そして今考えるべきは、当人等が 「おいてきぼりはいや」 じゃなくて 「そのままでいい」 と言っていることについてだ。

ここで、デジタルディバイド の意味を 「デジタル社会について行けない人々の格差」 だとすれば、私が言う アナログディバイド とは、「情報機械化ばかりの世相を追っていて、自然物としての生命力や、人間本来の情操を喪失した状態」 を指す造語である。 あえて 「情操格差」 とでも言おうか。 それとも、「デジタルメタボ」とでも言おうか。 もちろんここでの 「ディバイド(格差)」 の程度は人によって様々である。 格差以前の段階で、日々の命をつなぐ事さえ難しい人々もこの地上に沢山居る。

しかし実は、このような 「残った人々」 の中にこそ、自然と共に人生を過ごすという、人類が失うべきではない 「時と場」 が与えられているのだと思う。 自ら意識しているか否かに拘わらず、好むか否かにも拘わらず、それこそ原アナログ的な貴重な世界なのだ。 旅に例えれば、駆け足ツアーやエゴツアーに参加して自然を愛でるよりは、もっと身近に愛でるものがいっぱいあるのだ。

人類は、言葉や文字や通信手段をものにして、それらを 「文化」 として急速に 「進化」 して来たのだが、そこには必ず 「自然」 との落ち着いた対話が(今までは)あった。 確かに人間も自然の中の一員であったのだ。 でも、これからの デジタル情報社会 を想うに、人間は人間の作ったものの中でのみ過ごして行くのであろうか?。 街で、アナ・デジどちらとも分からない状態の 「携帯」 を愛撫しっぱなしの若者を見ると、あきれるを通り越して実に気の毒に思う。 巷に溢れる 「デジタルの落とし穴」 を避けるには、堅固な情操が必須である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月13日 (水)

ネット社会の安全

「ネット社会の安全 どう守りますか」、12月9日のNHKの討論番組を見た。 一筋縄では括れないテーマであるだけに、予め準備されたアンケート回答用の選択肢もピントが合わないものが多くて、ゲストのセンセイ方から不満が出ていた。 「やらせ」 は勿論いけないが勉強不足や準備不足も頂けないよ NHK様 ・・。

ところで、私達一般市民はネットでの安全を守るためにどうあるべきなのか?。 このことを番組では、情報発信側の 企業 や 個人 の、そしてそれらに規制を行う側の 親 や 警察 や 国 のあり方にのみ論議が集中して、結局、ネットの「自由」と「規制」についての討論会みたいになってしまった。 だから残念ながら、市民が自らの安全を守るための方策については、いいヒントを提示出来たとは言えない。

3時間近いこの番組で、終始私が注意していたのは、一般市民のあるべき ネットリテラシー についてどんな考えが開陳されるのか・・であったのだが・・・。 これについての日頃の私の思いは、個々人が必要最小限の知識を持って、自信を持ってネット社会を泳ごうと言うものである。 今や社会のあらゆるサービスがネット化されている時に、これに疎い高齢者や子供達がそのウミに溺れてしまうのは自明のことである。

だから、ネットをあまり知っていないと思われる人々が、そのネット企業の繁栄を期待して、見事に騙されて投資をしてしまうのだし、 ATMをあまり知らない人が、欲望の赴くままに、そして耳元の携帯がしゃべるままに、そのボタンを押してしまうのだ。 大事なのは、事件が起きてから騒ぐことではなく、国民の誰もがそういう深みに溺れないように、あるべき最小限のネットリテラシーを持つことだと思う。 犯罪者は、おのれより賢くない市民を餌食にする。 早くしないと、このようなデジタルディバイドを衝いた犯罪はこれからもどしどし登場して来るであろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月17日 (金)

猿神退治

日本の昔話の中に 「猿神退治」 という類型がある。 村の未婚の娘を、生贄(いけにえ)として毎年要求してきた 「猿神」 を、旅の男(例外もある)がみごと退治する話で、全国に色々な内容で伝わっているらしい。 最近私は、それが素朴に伝承されている場面に出会った。 11月はじめに、高山市荘川町(旧荘川村)で催された 「荘川再発見ウォーク」 に参加したからだ。 昨年から地元の体育指導委員の皆さんが 「荘川新そば祭り」 に時を合わせてやっておられる行事である。 快晴のもと 秋の彩りが始まった荘川沿いの 7km の遊歩も嬉しいものであったが、コースの途中で聞いた民話の方に密かな興味があった。

Sarukami それは、荘川インターチェンジのある 「猿丸」 という土地に残されている 「猿神」さん という 祠(ほこら) を前にして聞いたお話のことである。 実は、私がこの地名を知ったのは、今から二昔も前、この地域で山小屋を作るのに相応しい土地を探していた時だ。 そのころから愛読していた、司馬遼太郎著 「街道をゆく」 の第4巻の中の 「郡上・白川街道」 にこの地名があって、以来、そこを通る度に、著者が著わしたあの奥深い人里の、何故かそこここに懐かしさ漂う風景を味わったものだ。

面白いことに、今回の民話の内容は、彼が紹介していた 「今昔物語」 の中の説話の内容とは主人公が異なっていた。 すなわち原著の中で、猿を退治した若い僧侶は、その民話ではなんと 宮本武蔵 になっていたのだ。 民話は口伝えで継承されるものだから、内容が変化するのは当然のことだろうが、実在の人物をして その人が来ていない土地に登場させることは、遺すべき文化としては好ましいことではないなと思ったのだが・・。

帰宅して、「街道をゆく」 を再び読んだり、ネットで検索して見ると、この種の説話についての研究や資料が実に豊富にヒットしてきて、驚いてしまった( 例1例2例3 )。 これによく似た話は類型的に 「猿神退治」 とか 「猿の経立」 と呼ばれていて、あちこちに流布しているのだという。 ちなみにこの場合の 「経立」 の読みは 「ふったち」 又は 「ふったつ」 であり、「年を経て立ちはだかるほどになった妖怪」 という意味らしい。 しかしそのことは、昨日行った県立図書館のどの辞書・辞典にも載っておらず、帰宅してググってみて始めて分かったのだ。 かくして今や、世界を覆う IT の巨大な館(やかた)は、古い日本語の検索さえも一般の図書"館"より強力な環境下にあることを実感したのである。

注) ; 今昔物語集巻第二十六 「飛騨の国の猿神、生贄を止めたる語」 の現代語訳は多数の国文学者によって出版されているが、これらをそのままサイトに転載することは許されないので、自分の言葉で意訳して、荘川が大好きだった愛犬のHPに載せることにした。 少しずつなので未だ途中である。  なお、上記の説話例1、2、3は、離れた場所で一つのお話が別の主人公名で伝承されているもので、そのお陰で両地が姉妹都市になったと言う珍しい例である。 更になお、これら 「猿神退治」型説話 の起源は中国の 猴娃児娘(ほうわるにゃん)型故事 だとも言われている。  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月10日 (金)

日本語力

11/08 の クローズアップ現代(NHK) のテーマは 「どうする 若者の日本語力」 というものであった。 自分の日本語さえ不確かな (・・と日ごろ妻に言われている) のに、他人のそれを云々する力は微塵も無い。 が、その低下の原因として、このところの IT の進展が挙げられていることに、賛否こもごもの感慨が湧いた。 確かに、昔はワープロパソコン携帯も無くて、文字を手で書くことが情報伝達の大事な手段であった。 今は、それが無くて日本語力が落ちたという訳である。 でも、その人の日本語力はその人のアイデンティティーそのものなのだ。 IT とか教育とか言うよりも、 もっと基本的な、個々の日本人の文化の問題だと思った。

手書きについての私の経験だが、専門が灌漑用ダムの計画・設計・監理であったから、業務の成果を納めたのは(設計書や図面や報告書などの)書類の形でだった。 一つの業務当たりの文書の量は膨大なもので、それが全て手書きであった。 それが現在は、図面も 文書も 殆ど全てがコンピュータ上で作成されている。 しかも、類似文書からの流用 (コピペ+手直し) という手法が繰り返されて行くから、(不完全な手直しの結果) 技術計算も日本語も一旦壊れるとその部分が誰からも発見されずに後に伝わっていくことがあり得る。 それが情報伝達の質の低下の一つの原因だと思う。

この種の 「シゴトの仕方の変化」 は色々な場面で起きてきた。 LSI電卓が現れて机上からソロバンが消え始めたのが1967年、日本語ワードプロセッサー(JW-10)が市販され (以来漢字を知らなくても文書が書けるようになっ) たのが1978年、世界的な設計図面ソフトの AutoCAD が出たのが1982年、それが高価で手が出なかった我々にフリーで高性能な製図ソフト JW-CAD が与えられたのが1997年・・・と、本当に目まぐるしく発展をしてきたものだ。 それにつれて急速に 「手仕事が」 減った。 そのお陰なのか、私は手で字が書けなくなり、逆にキーボードだけが頼りになったのである。

このように、IT の進展によって影響を受けた人間の能力と言えば、なにも国語力のみでは無く、計算や製図や測量などの面でも大きな変化があったのだと言える。 この変化を単に人間の能力の 「低下」 と言う側面のみで捉えていては寂しい。 「低下もまた宿命、タノシからずや」 である。 嘆いている間にも IT の進展は続いているのだ。 やがて、頭の中で思っていることが即正しい文章になって出力されるようになるに違いない。 そうなれば国語力なんかは趣味の範疇に入る。 ナンクロ本が売れるわけだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月20日 (金)

39年後の ナゴルトダム

Nagolddam 私どもの南独の旅の前半は 文字通り ロマンチック を追っかけたものだったが、後半はセンチメンタルなものに変わった。 ローテンブルグ の宿から マインツ の宿に移動する途中に、私が 1967年 にダム建設の実地研修をした ナゴルトダム に立ち寄ったからである。 このダムサイトは基礎地盤が弱いので コンクリート造り を止めて ロックフィルダム として築造されたのだが、堤体の芯で水を止めるための 粘質土 が付近で採れないので、代わりに池側の斜面をアスファルトで舗装して漏水を防ぐという特殊な工法を採ったものである。

Nagoldwork67 アウトバーン を下りて一般国道から地方道へ、黒い森地帯の北東部にある ナゴルト谷 に沿った道は、既に秋の彩りが始まっていて、早朝からの高速走行で体が硬直してしまっていた妻はやっとリラックス出来てご機嫌になった。 このダムは多目的で、洪水調節と ナゴルト の町への上水源と発電を兼ねているのだが IT で遠隔操作をしているのだろう、管理所に人影は無く、会ったのは散歩の老夫婦と、ローラースケートでダム湖を周回している雪待ち顔の男性だけだった。 上流側斜面の舗装は 39年 を経ているとは思えない程にまだ新鮮な黒色をしていた。

「ドイツで学ぶならドイツ語を話せ!」 とは、ケルンの受け入れ機関でよく言われたことだが、現場でそういうことを言う人はいなかった。 「技術は見て盗め」 と言う程の冷たさもなかった。 ただ皆、特殊な工法を実践しているという自負と真剣さとで、実に厳粛でしかも豪快な雰囲気があったことを思い出す。 工程に大きな区切りが付くと、沢山の ブルスト(ソーセージ) を仕入れて来て、ドラム缶で茹でて振舞ってくれたものだ。

Nagolddam2 私は舗装の専門家ではなくて、ダム構造物一般の設計を仕事としていたので、あの工事現場で見るべきものは他にも数限りなくあって、日本のそれらとの違いを確認したり感心したりしながら ノート片手に毎日々々歩き回った。

このダムより 26km 下流にナゴルトの町があり、更に 26km 下ると カルフ(Calw) の町に至る。 ノーベル文学賞を受けた ヘルマンヘッセ の生まれたところだ。 「車輪の下」 を始め彼の青春文学作品には ナゴルト の流れがよく登場するという。 当時は勿論、今回の旅に際しても私はこのことをまったく知らなかった。 我が青春は もうはるかに 遠い ・・ 。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年9月24日 (日)

ロマンチック街道へ

Rothenburg 10月初めに、念願のドイツロマンチック街道をレンタカーで走る予定である。 念願をしていたのは妻の方だが、彼女は全くの方向音痴で地図も読めないから、準備もガイドも私の役目だ。 当初はその街道がどの辺りを走っているのかも知らなかったのだが、調べているうちに、そこは約40年前に私がダム建設の実地研修をした「黒い森」地帯からそんなに遠くないことが分かった。 それならついでにと、昔懐かしい現場と、設計研修をしたケルン市とを旅程に加えることにした。

Schwarzwald 従って今回の旅の前半はロマンチックに、後半はセンチメンタルに・・ という事になる。 荷解きや荷造りが面倒で、宿を換えるのが嫌いな性分だから、前半はローテンブルグに4泊、後半はマインツに2泊として、希望の道程はレンタカーで稼ぐことにした。 懐かしいケルンに泊らずにはるか上流のマインツとしたのは、ライン河下りの便を考えたからである。 その上りはドイツ新幹線にする予定だが、多分大丈夫だろう。 レールは2本だし、確率論的に言えば事故はもうしばらくは起きない筈だからだ。

ところでこの旅の手配は、航空便も、宿も、レンタカーも、全てネット上で済ませた。 お陰で、ネット予約割引のみならず、早期予約割引や早期決済割引など、かなり高率な値引きがあることを知った。 ドイツの鉄道もネット上の予約発券サービスが充実しているが、発車時間を気にしての見物は楽しめないし、列車の本数も多いので、予約無しのなりゆき乗車をすることにした。 そして、折角の旅の思いをセンチメンタルに記録するにはやはり IT が欠かせない。 私は書痙(手のふるえ)がひどくて筆が握れないし、旅先でも情報の受発信は肝要だから IT の便宜が頼りなのだ。

Mainz 持参するのは無線LAN が使える新調のノートパソコンだ。 今回の準備で知ったことだが、欧米の宿のホームページでは "Free Wireless Lan" ( =無線LANが使い放題 )という表示が目立つ。 ちなみにローテンブルグの宿は木造らしく、部屋まで電波が届くとある。 使い勝手は未知だが是非挑戦してみたい。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年4月19日 (水)

ハイブリッド今昔

昨日、ハイブリッド車のことを書いたが、今日は車以外で、今迄に出会った「ハイブリッド」のことをおさらいしてみる。 私にとっての最初のそれは、大学での「育種学」の講義で教えられたもので、およそ食料となるものは動物も植物も品種改良の研究が重ねられていて、そのヒット作品にはハイブリッドが多いと言うことだった。 今ネットで検索するとほとんどの食品でそれが登場する。

生物学においてもこれは、「異なった種を特に人工的に組み合わせてできた新種のことを言う」 (Wikipedia)  とのことだが、私が学んだのはもっと狭義で、育種学で言うところの 「一代雑種」 を指す 「ハイブリット品種(F1)」 のことだった。 種をつける母親株の雌しべに、異なる品種の雄しべの花粉が付いて実った種のことだ。 これには「雑種強勢」効果 (成長が早い・揃いが良い・収穫量が増える等々) が現れる一方で、二代目の種は使い物にならないとか採れないなど負の特性がある。 その「お陰で」 タネ屋さんの大きなビジネスが展開されている訳だ。 F1 と言えばカーレースを思うだろうが、食品の F1 の方がその規模も世界的で、人類への影響度も大きいのだ。

その後、経済や技術の発展につれて、生物以外にも、色々なハイブリッドが出現して来た。 駆動のエネルギーを複数にしたハイブリッド腕時計 (昔の手回し竜頭+自動巻きローターから今のソーラー+電池まで色々) 、半導体のハイブリッドIC (アナログ回路+デジタル回路) 、パソコンソフト (Windows向け+Mac向け) 等々、いっぱいある。 私がクラス会事務の通報用に重宝しているのはハイブリッドメールだ。

なるほど、"hybrid"  を手元の辞書で引けば 「雑種の・混成の」 と簡単に書いてある。 何の呼称にでも使える訳だ。 でも私の耳は 「ハイ・・」 という音に先ず感応してしまうのだ。 その音感からは 「単なる混ぜ物や揃え物」 ではなくて 「高度な融合・精製・創造物」 を連想するのだ。 即ち 「1+1=2」 ではなくて、「1X1=new1」 なる様態の産物こそがこの呼称に相応しいと思う。

Chunichihybrid 近頃の 「産地ブランド」 とか 「地理的表示」 の動きに合わせて、「ハイブリッドなる呼称」 にも規制強化!を・・・なんちゃって。 ところで、中日新聞に連載中の 「この国のみそ」 の 「ハイブリッドの流儀」(4/17) のコジツケぶりは秀逸だ(右図をクリックすると書物版が現れる)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月13日 (木)

私の心経

心経とは般若心経のことである。 あと8年で、その教えを説かれた釈迦如来が入滅してから2,500年になる。 そして、大乗仏教の祖と言われる龍樹菩薩が、釈迦の教えの真髄を「空」として纏めたのはそれより6,7百年後、更にあの三蔵法師が、その纏めのエッセンスをサンスクリット語から現在のような276文字の「心経」に漢訳してから1,350年余も経っている。 そして現在、この心経は最も多くの人に最も多くの回数で読まれているお経だと言う。

例えば、この季節の四国のあちこちでは、一日に延べ数万人・回の心経が詠まれている筈で、日本全国の寺院や仏前でも同様であろう。 私も四国遍路を既に二周り半したので、心経は諳んじて読める。 ただ、私が育った村ではみな浄土真宗だったので、このお経を知ったのは故郷を離れて以降のことだ。 なぜ浄土真宗では(日蓮宗も)心経を詠まないのか詳しくは知らない。 その根本を纏めた龍樹菩薩をとても大事に(正信偈)する宗派なのに・・?

さて、私が心経をどのように理解しているかを書くのは恐れ多いことだが、この歳になれば、ふと思い当たる「こと」は少なからずある。 でも、「こと」では、それだけで教えの真髄から外れるのかも知れない・・。 そしてなるほど、結論は「無」とか「空」なのだから、賢いお方にとっては書くのは簡単だとみえて、今でも哲学者生命科学者などが本にしては稼いでおられるようだ。 実に偉大なお経である。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2006年4月11日 (火)

私の外国語

私にはちゃんと喋れる外国語は無い。 最近は、「貴方の日本語もなんだかおかしいよ」と妻に言われる始末だ。 でも、現役時代に仕事で出掛けたのは10ヶ国を超えるし、その日数を足すと6年以上になる。 途上国での技術援助が主だったから相手国の人々とはもっぱら片言英語で話し、辞書を片手にレポートを書いた。 レポートは援助元の役所用に日本語でも書いたから、後で、「ここは両者間の意味が違うよ」と、語学の強い役人によく指摘されたものだ。 でもそれだけで、何故か技術の方を論評してくれた役人の記憶は無い。その頃既に日本のテクノクラートは消滅していたのだ。

それはさておき、今思うと惜しいことだが、折角滞在した国々の言葉を身に付けることは出来なかった。 が、業務以外の場での生活用語は否応無く使わねばならない。 それらで今になって思い出せる言葉は殆ど無いが、パーティーの余興用に懸命に覚えたそれぞれの国の歌が一つずつある。 比国の「貴方ゆえに(ダヒルサヨ)」、泰国の「ここに幸あり(#1)」、緬国の「片思い」などなどだが、それらを誰から教わったのかはもう記憶の外だし、歌詞の意味も正しくは覚えていない。

また、1971~73 にはイランのダム現場に家族で滞在したのだが、二人の子供達 (5歳と3歳) の方が ペルシャ語を早く覚えた (#2、mp3 : 650kb : 5分31秒)。 今はもう忘れてしまったのだろうが。

それにしても外国語を直ぐに覚えられる人は凄いと思う。 私の経験からも、自分を含めて日本人は外国語(英語)が確かに苦手だ。 戦後60年、未だにああだこうだと語学教育の手法論議のみが繰り返されているが、そんなの放っといて、若い人たちは習うより慣れろを実践しにさっさと外へ出掛ける時代になった。 「日本」も「日本語」も未だ会得しないままにだ。

今や、外国語=英語 の時代、これに必死に抵抗する 気概ある国 もあるが、私のように、世界中の愛犬家とのメールをやり取りしながら、ネット時代の 便利さ 楽しさ を享受している身から言うと、英語は間違いなく世界共通言語だ。 でも私はやっぱり日本が好きで、死ぬまで日本語の勉強をするつもりだ。

ここで、この記事にコメントを下さったお方のブログの 「英語ペラペラ幻想」 をお薦めしたい。 さすが現場でご苦労なさっているだけあって、すべてお見通しで、実に痛快だ。 更にその続編を読めばもう一枚ウロコが落ちる。 そして更に二枚目のウロコも落ちる。

---

(#1) ; タイでは 「ここに幸あり」 は自国の歌だと思っている人がとても多い。

(#2) ; ペルシャ語の1から10までは、イエキ・ドー・セ・チャハール・パンジ・シシ・ハフト・ハシト・ノ・ダであるが、子供らはバンジの次がどうしてもキックになってしまうのだった。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年3月26日 (日)

恩師の自分史

あまたの恩師の中に、私が卒業した後も、転職する際も、引退した時にも親身な心配をして下さった先生がおられた。 丁度2年前に91歳で亡くなられたK先生である。 その前半生の行政の場と、後半生の教育の場で、その分野でのテクノクラートの真実を実行され、多くの後輩を育てられた。 そして最後の日まで、日本の農業土木の行く末を具体的に案じておられたのだが、詳しくそのことを知っている教え子は少ない。

幸いなことにと言おうか、ご迷惑をかけっ放しだった私は、色々な場面で先生のお気持ちを聞かせて頂く機会に恵まれた。 ことに、ビルマ国でのサウスナウイン灌漑事業の実施設計業務(1983〜84)では、先生自身が専門メンバーとしてコンサルタント団長の私を助けて下さり、時に現地プロームの空の下での清貧なる晩餐を楽しませて頂いたものである。 先生は、普段の優しいお言葉とともに、学究的・技術的なテーマでは極めて精緻な姿勢を貫かれた。 その姿勢は老いてもなんら衰えることがなかった。

しかしとても穏健なご性格上、それらのお考えを振りかざすことなく、ただただ良き老人になって行かれた。 それに気付いていた教え子たちにけしかけられて出来上がったのが先生の自分史 「春秋叢記」 である。 また、それの編纂を兼ねて集められた膨大な文書を取り纏めてウェブサイトに載せたものが 「菊岡武男著作集」 である。 両方ともその完全な出来上がりの姿を、先生は見ることなく逝ってしまわれた。

しかし、先生が 「自分がやって来た研究や仕事について纏めておきたい」 と思っておられたことは確かである。 教え子たちがそれを提案した時は、既にかなり病弱になっておられたのだが、あの時のお顔の輝きと、直後からどしどしと送って下さった資料の多さでそれが分かる。 初めは戸惑ったのだが、結局はその物量の多さを楽しくこなすことが出来た。 パソコン・ワープロ・スキャナ・OCN・CDR/W・等々の IT のハード・ソフトのお陰である。

「ほんとに便利になったんだなー・・」、資料はどれだけ出てもいいのですよ・・との教え子の説明を聞きながら、とても嬉しそうに安心されたお顔が忘れられない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月10日 (金)

黒い森

黒い森はどこにもある。 でもこれをドイツ語で Schwarzwald と書けば、これは固有の地名で、フランスとスイスとの国境に広がる森林地帯のことである。 今ネットで検索すると、ここで6月に浦和レッズが合宿することとか、フランスケーキのフォ・レノワール(=黒い森)のグルメ記事ばかりがヒットする。 でも、私の思い出は今から39年も前(1967)のことである。

その年、私は当時の西ドイツに滞在して、灌漑施設への瀝青舗装の適用法について実地研修をした。 水路やダムの内側をアスファルト舗装して水漏れを防ぐという技法のことである。 研修は、設計法と施工法と試験法とでそれぞれに3ヶ月ずつで、その内施工の研修地はこのシュバルツバルドの中の渓谷に造られていたナゴルトダムの現場であった。

その時の宿は、森の中に開けた耕地の中の一軒のペンションであった。 そこの家族は、料理の得意なおばあちゃんと兼農の夫婦と小学低学年の女児と男の赤ん坊とで、誰も外国語を話さないし私はドイツ語が話せなかったので、夕食後辞書を片手にワイワイとやりとりしたことが懐かしい。 最近は「観光農業」とか「農家滞在」ということが言われているが、その原型を見た訳だ。

nagold-dam 右の写真の中央に痩せた胃袋のように黒く見えるのが現在のナゴルトダム湖である。 ちゃんと水が溜まっているようなので、あの時の巨大な堰堤斜面の舗装が巧く働いているのだと思う。 池の左下、森の道を上りきった所の耕地にあのペンション「カフェ・バーゼン」がある筈だ。 並木の熟れたりんごがとても小さくて驚いたものだ。 耕地の周りは樅や松などの森である。 これらが段々と枯れて行ってしまうのだという。

あそこは今はどうなっているのだろう? 再訪出来たらな・・と、昨年英語で手紙を出したのだが応答は未だ無い。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年2月 6日 (月)

ダムエンジニア

私の専門は(資格上のカテゴリーで言えば)灌漑技術である。 もっと絞ると貯水施設の技術である。 海外の灌漑事業への技術援助では、他に、測量・農学・農業経済・地質・土質・導水施設・圃場・施工技術などの専門家が集合して一つのチームを作って出掛けた訳だ。 だから、遠い昔に、それをほとんど一人でやったという八田與一という人に感嘆せざるを得ない。

ところで、貯水施設の技術者のことを英語ではダムエンジニア Dam Engineer という。 私の海外出張用の名刺にはそう刷ってあった。 名刺はチームが先方の国に到着して間もなくは沢山消費する。 それについて、ある国で経験したとても苦い思い出がある。 その思い出は、そのままその国そのものの思い出になってしまった。

先方国のある役所で、上位の部署から順に挨拶をして回って行って最終段階になったころ、それは即ち、これから我々コンサルタントとの日常の折衝が行われる部署でのことである。 私の名刺を見て担当係官が発した言葉は 「オーッ!ユー アー デャム エンジニア!」・・。  その意味は、彼の皮肉っぽい顔に説明してもらわなくても直ぐに分かった。 "Dam" ではなくて "dumb" だったのである。

誇り高き彼が言いたかったことは 「我々の国には金が無い。 が、ダムの歴史は君の国より古いし、君の国の最大級のダムを10個集めてもわが国のダム1つの方が大きい。 技術援助なんか要らんから金だけ持って来てくれ・・」 ということだったと思う。

その時の私達の立場は、日本からの技術援助業務ではなくて、ある国際金融機関からの派遣調査業務だったから、相手もついそんな態度になってしまったのであろう。 が、私にはこの思い出がその国の印象の全てに覆いかぶさって離れない。 確かに、高い誇りが前面に出てしまう国と、奥ゆかしく保持している国と・・、国も人も色々であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月 5日 (日)

台湾農民の父、八田與一

今日、かっての大学級友から嬉しい資料が送られてきた。 台湾嘉南平野総面積15万haの潅漑事業の父、八田與一についての報告文だ。 私は、この人物の話に接する度に感動を繰り返す。 それが大正から昭和初期にかけてのかなり昔の事業だったこと。 このように広大な農地の潅漑事業を日本人一人で企画し監理したという例は他に無いこと。 なにしろ、例えばその総面積よりやや広い香川県の平野部を潤している香川用水が、約3万haの受益面積で、それが日本一だと言うのだから。

なのに、この人物を知る日本人は極めて少ないこと。 それを憂えてか、現代日本人への元気付けの為にか、 この人物像を伝え続けている外国人がいること。 それは日本人よりも日本人だと言われる台湾の人、李登輝さんである。 彼が、慶大の三田祭(2002.11.24)に招かれて準備した講演原稿がそれを語る。 残念ながらその講演は実現しなかったが、後日それを産経新聞が載せている。 以来、八田與一の名前がネットの検索結果にも増えてきた。 現地台湾では近くテレビドラマにもなるという。

潅漑事業は農業土木の仕事である。 私もこの分野を卒業しその分野で働いた。 なのに、学生時代以来この人物のことを学んだ記憶がない。 初めて知ったのは上記の新聞記事を送って下さった当時89才の故恩師のお陰である。 恩師さえも深くは知らなかった話・・、戦中戦後の台湾の歴史はそれほどに一般の日本人からは分断されていたのだろう。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年1月20日 (金)

構造計算の今昔

昨日の衆議院国土交通委員会での参考人質疑で、四ヶ所猛建築士が「自分も若い頃は(構造設計を)手計算でやっていて内容も理解していたつもりだが、それがコンピュータでやれるようになってからは詳しいことは分からなくなり・・」のような主旨のことを言っていた。このことは現在の技術者の多くにあてはまることだと思った。それは単に高齢だからというのではなく、技術者としてのステータスが上がれば当然の成り行きであろう。

彼とほぼ同年層の私も変わりはない。ようよう卓上計算機が出たのが25歳の時で、それまではあの(手回しの)タイガー計算機で乗除算をし、丸善の対数表を片手に持って、開平(ルート計算)などはソロバンでしたものだ。39歳の時には、複雑な計算はみな社内のIBM製メインフレーム(大型計算機)にやらせていた。それでも当時は、自分たちでプログラムを組んで「やらせて」いたのに、今はもう「優秀な」ソフトとパソコンでなんでも「やってもらって」いるみたいだ。

恐ろしいのは、これら構造設計用のコンピュータソフトが多岐にわたって発達し多用され、それらが人の手を離れて黒い箱の中で猛スピードで稼動している現状である。個々のソフトの質については、実地に確たる検証がなされてから世に出て来たことであろうと信じたい。しかし、もっと恐ろしいのは、日々これらにデータを入力しているのは現場経験の薄い若い技術者たちだということだ。そして、その出力(計算結果)を見て、異常値の有無を判断出来る人は、もうどこの設計現場にもいないのではないかということだ。

これらのハード・ソフトを正しく使いこなす人材が減って行く一方で、相手はやはり人造のIT、使い方を歪めることもやれば可能なのだ。技術の分野のみならず、このようにITの世界を陵辱するような汚れた心や手がこれからもどんどんとのさばるようないやな予感がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 9日 (月)

成人の日

今日は成人の日、昔は1月15日に決まっていたのに、国民の祝日の多くが何月の第何曜日と定められてからは、なにやら有難味が薄れてしまった。暦のサイクルまでが効率・経済優先の観点から決められるなんてつまらないことだ。

愚痴はさておき、私の成人式の当時(1959)のIT事情を思い出してみよう。町役場からの式の通知はもちろんハガキで、暮れに津市の大学寮から愛知県の三河の一農村に帰郷して親から渡された。メールはもちろん電話も家には無く、農協に1台だけあった。「○○さん電話ですー」と、組合事務所の屋根の拡声器が吼えていたのが耳に残っている。

会場にカメラを持って来たのはほんの数人、ケイタイはもちろんウォークマンもまだまだ先の話だ。思いはそれぞれ熱かったことだろうが、みんな静かだったなー。時代のスピードがぐんと上がって行くのに、みんな無意識にそして純朴に乗っかっていたみたいだった。

それは、春に皇太子のご成婚があり、秋に伊勢湾台風、そして5年後の東京オリンピック開催と東海道新幹線の開通がはっきりして岩戸景気が始まったころだ。ITでは、コンピュータ言語のFORTRAN(1957)とCOBOL(1960)が前後して開発されたころだが、学生の身の私はもとより知らぬことだった。後で大変お世話になることも・・。

それよりも、あの成人式の前日に報道された「南極のタロとジロが生きていた!」ことの方が私には嬉しいことだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 8日 (日)

ロータス1-2-3

Lotus123v22 表計算ソフトと言えば今や Microsoft Excel の独壇場である。が、私は Lotus 1-2-3 を手放せない中高年層の一人である。かつて 1-2-3 は、パソコンの基本ソフトが MS-DOS から Windows へ移行した時の波に乗り遅れたと言われた。実は私もそれに不安を感じて、 Excel に乗り換えた時期があり、そのマクロ言語(VBA)の使いづらさに泣いたものだ。

私が Lotus 1-2-3 を愛するのは、そのマクロ言語の使い心地の良さにある。データを書き込むのと同じシート上の好きな場所に好きなだけマクロプログラムが記述出来て、しかも極めて単純なキー操作でそれらを走らせることが出来るので、入出力データの相互間の見通しの良さは抜群である。だから私は、ポケット科学計算機や初期のパソコンで、未だベーシック言語しか使えなかった時期にプログラミングした資産を、全てこの 1-2-3 に移行したものだ。

引退した現在、亡き愛犬のウェブサイト「老犬がんばれ台帳」なるミニデータベースを公開しているが、この為のデータ処理も、サーバーへのアップロード以外は全て、1-2-3 の一つのシート上でやっている。HTML文のデータ部分もここで作らせているので、ワン君が1,100頭を超えた今でも日常の管理はいたって楽で実に快適である。

私の使っている 1-2-3 は SOURCENEXT社がたったの \1,980 で販売しているもの(IBM純正と同等だとか)で、、「台帳」に新規の登録犬が来てくれるとそれが1頭だけでも、全てのデーターをリセットして時系列で並び直させ、最新の統計処理を行わせる。パソコンは CPU=Celeron2.0G RAM=256M OS=XPsp2 だが、その所要時間は135秒前後である。

初期の 1-2-3 の値段が10万円近くで、製品1箱の重さが数kgだったことを考えると、とても感慨が深い。 左上の写真がそれ(V2.2J、1991購入)で、付属のマニュアル書の厚さが4cm、711ページもあった。 おじんのように目がくたびれた者には、マニュアルはやはりこういう印刷物がいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 5日 (木)

パソコン通信のころ

私のパソコン通信の始まりは1988年3月、赴任地で「コミネット仙台」を利用した時である。通信事業の自由化で電電公社がNTTに民営化され、通信開放によりパソコン通信サービスが始まったのが1985年だから、個人ユーザーとしては早い方であった。

個人ユーザーだから、電話料金を節約するために出来るだけ居住地の近くのサービスを利用した訳で、大企業や金持ち向けの全国的なものに対してこれらは「草の根BBS」と呼ばれ、第三セクター的な経営が多かった。その後名古屋の本社に戻ってからは「中日ネット」に替えた。それほどに、パソコン通信の費用では電話料金が大きな比重を占めていたのだ。

80年代の終わり頃には回線のスピードやモデムの性能も上がって、大手パソコン通信のアクセスポイント数やサービス内容がどんどんと向上したので、社用としてNIFTY-Serveに加入してもらった。ここは、アメリカのCompServeと連携していたので、技術情報の検索に大いに役に立った。ただ「会員」としては、本社用に一名義、東京支社用に一名義だけを取って、全社用に「上手く」使ったものだ。

日経パソコンの今年の最終号の「プロバイダーランキング2005」を見ると、@niftyは総合第5位とのこと。幾つかのホームページ作りにここの「CGIサービス」を大いに役立てている私としてはやや意外である。ランキングトップの某社などはこのサービスさえ提供していないのだから。

そう考えながら、今も我が部屋の壁でコチコチと正確に動いている厚紙製の折り畳み時計を眺める。この時計は1990年6月に「会員10万人突破記念」としてNIFTY-Serveから頂いたものである。

nifgift

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 1日 (日)

「おじんのIT今昔」とは

私は現在66歳、パソコン暦は1980年の日立ベーシックマスター以来25年、インターネット暦は1988年のコミネット仙台以来18年と、丁度日本におけるIT時代の進展とともに生きて来た。

既に現役を退いて数年、自分が今ITの下での生活にどっぷりと浸かっていることに気がつき、それが同級の友達よりはかなり極端であることに気がついた。でも、それを自慢する気はない。むしろ、これぞ「年寄りオタク」なのではと自問することもある。

私はITの専門家ではなく、本業を土木技術者とする一介のITユーザーだったに過ぎない。それもかなり生真面目で頑固なユーザーだったと思う。そして、今までの仕事や趣味上でのITへの関わりを表せば、それはそのまま「後期自分史」になるのではと思う。

この四半世紀のITの進展はまことに目まぐるしく、ユーザーの側から言っても実に様々な出会いや苦楽があった。これから、それらを思いつくままに書き残して行きたい。IT以外の話が出るかも知れないが、ブログというものがその「思いつくままに書く場」として役に立つことを期待しながら・・。

| | コメント (1) | トラックバック (0)