アナログディバイド(情操格差)
よく 「デジタルディバイド(情報格差)」 とは言うが、「アナログディバイド」 という言葉は(今のところ)存在しない。 それは、アナログはデジタルより低位にあると考えられてしまっているからだ。 でも現に、両者はまさに対極にあって、ともに人類の幸せを考える時の大事な局面であるような気がする。 そして、それらの優劣の関係についても従来のそれは実は「僭越なる幻想」であったことに気付くべき時が来ているのだと思う。
例えば今、日本のテレビ放送はアナログ方式からからデジタル方式に移行しつつあって、前者は2011年に全面的に廃止されるという。 確かにテレビ受信の状態は格段に素晴らしいものになったのだが、「おいてきぼり」 の問題は残ったままだ。 そして今考えるべきは、当人等が 「おいてきぼりはいや」 じゃなくて 「そのままでいい」 と言っていることについてだ。
ここで、デジタルディバイド の意味を 「デジタル社会について行けない人々の格差」 だとすれば、私が言う アナログディバイド とは、「情報機械化ばかりの世相を追っていて、自然物としての生命力や、人間本来の情操を喪失した状態」 を指す造語である。 あえて 「情操格差」 とでも言おうか。 それとも、「デジタルメタボ」とでも言おうか。 もちろんここでの 「ディバイド(格差)」 の程度は人によって様々である。 格差以前の段階で、日々の命をつなぐ事さえ難しい人々もこの地上に沢山居る。
しかし実は、このような 「残った人々」 の中にこそ、自然と共に人生を過ごすという、人類が失うべきではない 「時と場」 が与えられているのだと思う。 自ら意識しているか否かに拘わらず、好むか否かにも拘わらず、それこそ原アナログ的な貴重な世界なのだ。 旅に例えれば、駆け足ツアーやエゴツアーに参加して自然を愛でるよりは、もっと身近に愛でるものがいっぱいあるのだ。
人類は、言葉や文字や通信手段をものにして、それらを 「文化」 として急速に 「進化」 して来たのだが、そこには必ず 「自然」 との落ち着いた対話が(今までは)あった。 確かに人間も自然の中の一員であったのだ。 でも、これからの デジタル情報社会 を想うに、人間は人間の作ったものの中でのみ過ごして行くのであろうか?。 街で、アナ・デジどちらとも分からない状態の 「携帯」 を愛撫しっぱなしの若者を見ると、あきれるを通り越して実に気の毒に思う。 巷に溢れる 「デジタルの落とし穴」 を避けるには、堅固な情操が必須である。
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